カメラノメ、カメラの眼、カメラアイ。
カメラアイという言葉も多くの論者によって使われてきた。
たとえば、重森弘淹の『写真芸術論』は、次のような文章で締めくくられている。
現象をイメージとして、また実在として定着しうるような複数のカメラ・アイがここでもまた課題となる。
複数のカメラ・アイ、そして現象、イメージ、実在とは何なのか。これが、なかなかややこしい。
一方で「内部状況における現象はつねに混沌としたイメージとしてとらえられる」が、他方「外部状況としての現象は恣意的な実在としてあらわれる」と、重森は綴る。さらに「現象とはわれわれにとってイメージであるとともに実在なのである」とも述べている。
複数のカメラ・アイとは、現象をさまざまに規制する状況をとらえることである。現象とはつねに外部状況であるとともに、また内部状況であるのだから、いわばその関係としての総体をとらえるようなリアリズムでなければならない。これまで写真がなまな現実を対象としてきたことから、現象をもっぱら外部状況としてとらえてくるリアリズムにたっていたのである。しかし、外部状況はつねに内部状況として意識されねばならないし、そうされるかぎり、その関係の総体をいかにとらえるかが、新しいリアリズムの課題でなければならない。
つまり、
内部状況としての現象=混沌としたイメージ
外部状況としての現象=恣意的な実在
現象=イメージかつ実在
現象=内部状況かつ外部状況
ということなのだろうか。
複数のカメラ・アイというのは、そんなこんなをまるごととらえるものであり、そうした関係の総体をとらえることが、新しいリアリズムの課題だというのである。
複数のカメラ・アイとは、単眼ではないということだ(ことなのか?)。
かといって、二眼や三眼でもないだろう(そうなのか?)。
いうまでもなく、そのような具体的なものではなく、抽象的なものであるに違いない。
カメラノメは、機械の眼であり、もっと具体的だった気がする。それが、カメラアイになると、抽象的になってくるのが興味深い。
具体的で直接的なカメラノメ。それはそれで、ニンゲンノメとどちらがスゴイのか問題になる。
抽象的で間接的なカメラアイ。これはこれで、ニンゲンノメとの関係がよくわからない。
別の観点から考えてみよう。
具体的なカメラノメと抽象的なカメラアイ、どちらが撮る指針になるかといえば、カメラノメであろう。
徹頭徹尾、徹底的にカメラノメで撮る、と決意すれば、じつにスッキリ、スカットとした撮影行為になるだろう。
しかし、写真を見せるときには、カメラアイにした方がいいかもしれない。複数のカメラアイであり、関係の総体であり、ややシドロモドロなくらいの方がちょうどいい。
かといって、撮るときはカメラノメ、見せるときはカメラアイというのはアリなのだろうか。それでは、アリというかコウモリというかヌエである。
カメラアイ、カメラ愛。
camera-eye、camera-i。
cameraとiは、どこで出会い、どこで別れるのだろうか。
カメラ愛は、両者を結びつけるのか、引き裂くのか。
ところで、写真はどこにいったのか?
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