カメラ愛、カメラアイ。
カメラの眼、カメラノメ。
カメラアイとカメラノメ。どちらもなかなか語呂がいい。
カメラノメといえば、なんといっても伊奈信男『写真に帰れ』だろう。まずはここから考えてみよう。
新しい視点に立って物象を補足し、世界の断面を記録し、報告し、光による造形を行ふといふも、その制作活動はすべては社会的存在としての人間より発動する。社会的必要によって人間が制作活動を行ふのである。この場合に写真芸術の内容となり得るものは、その人間の属する社会生活の断面であり、自然世界の一般事象以外にはあり得ない。そして、人間が、主体が、これらの客観を見るとき、それは既に単なる人間の眼を以て見るのではなく、「カメラの眼」を以て見るのである
ニンゲンノメとカメラノメ。どちらがスゴイのかといえば、カメラノメがスゴイっぽい。だとすると、人間がカメラを使うのではなく、カメラが人間を使うのだろうか。どうもそうではないっぽい。「制作活動はすべては社会的存在としての人間より発動する」からである。
カメラの「機械性」は「特殊的・写真的」なるものの「はじめ」である。しかし写真芸術の「はじめ」ではない。写真芸術のアルファは、カメラの背後にある人間である。しかも社会的存在としての人間——社会的人間である
つまり、
社会的人間>カメラの眼>単なる人間の眼
ということになるだろう。
この式でいうと、6通りのスゴさの序列が考えられる。
単なる人間の眼>社会的人間>カメラの眼
単なる人間の眼>カメラの眼>社会的人間
カメラの眼>社会的人間>単なる人間の眼
カメラの眼>単なる人間の眼>社会的人間
社会的人間>カメラの眼>単なる人間の眼
社会的人間>単なる人間の眼>カメラの眼
たんに何かを見つめている人間がいる。何かを見つめているカメラがある。カメラをとおして何かを見つめていることに目覚めた人間がいる。それを見つめる人間がいる。それを見つめるカメラがある。それを見つめる目覚めた人間がいる……
こう書いてみると、ややこしい。ややこしいうえに、違う違うそうじゃない、という響きが聞こえてきそうだ。
なぜややこしくなってしまったかというと、社会的人間という目覚めた人間が出てきたからである。この人にちょっと引っ込んでもらうとしよう。
すると、2通りのシンプルな序列になる。
カメラの眼>単なる人間の眼
単なる人間の眼>カメラの眼
ニンゲンノメとカメラノメ、どちらがスゴイのか。
それ以前に、ニンゲンノメとカメラノメは、どのくらい近づくことができるのだろうか。近づいて近づいて、密着することがあるのだろうか。どれだけ密着しようと、一体化することはないのだろうか。そのへん、どうなのだろうか。
いや、ちょっと待って。
ニンゲンノメが、いつの間にか、タンナルニンゲンノメになっている。これを誕生させたのは、引っ込んでもらったはずの社会的人間である。
タンナルニンゲンノメ、素朴なボク、オイラ、アタシ、アタイ、ワタシ、ワシ、ワレ、ワレワレの眼。タンナルニンゲンノメはどんどん増えていく。
それが素朴だということを知っている者がいる。
それは社会的人間ではない。
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