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カメラガガ

24 邪心に帰る

2025/10/06
上野修

引き続き、役に立たないであろう、個人的なGR IIIxの話を書いてみることにしよう。
 

いつでもどこでも撮れるカメラとしてのリコー GR IIIxを手に入れたときにあらためて出会ったのは、そのカメラを手に入れるために、ググったりポチったりした、すでに手に持っているデバイスはなにか、という矛盾である。
 

それはiPhoneとかスマートフォンと呼ばれており、電話機を意味するフォンという語が含まれているが、日常的にはむしろ、インターネットデバイスやカメラとして使われていることも多い。
 

このことは折に触れ、なんども書いてきたが、じっさいに手元に両方あると、どうすべきなのか戸惑うのである。
 

いつでもどこでも撮ろうとするなら、なぜすでに手に持っているiPhoneで撮らないのか、なぜわざわざGR IIIxに持ち替えなければならないのか、あるいはiPhoneで撮ってからGR IIIxでも撮るのか、そうではなく一度持ち替えてGR IIIxで先に撮ってからiPhoneで撮るのか、なんともややこしい。
 

しかも、こんなふうに考えてしまっている時点で邪心だらけであり、いつでもどこでも撮ろうという軽快さは、すでになくなっている。
 

いつでもどこでもスナップシューティングするのは、フツーの「カメラ」で撮る「写真」だといえるだろうが、iPhoneがその位置にあるとするなら、GR IIIxは特別な〈カメラ〉になってくるだろう。iPhoneとGR IIIxが同じ「カメラ」でいけないわけではないが、もし同じなら、使い分け方がわからなくなってしまう。
 

GR IIIxを特別な〈カメラ〉として使うなら、「いつでもどこでも」もちょっと特別な〈いつでもどこでも〉になってくるだろうし、「何気ない日常」もちょっと特別な〈何気ない日常〉になってくるだろう。

 


 

だが、何気ない日常に注目するだけでも何気なくなさげなのに、特別な何気ない日常となると、特別なのか何気ないのか、それは日常なのか、わけがわからない感じになってくる。
 

そもそも、このような混乱をカメラで解決しようとするのが間違いなのかもしれない。
 

「いつでもどこでも」がちょっと特別な〈いつでもどこでも〉であるような、「何気ない日常」がちょっと特別な〈何気ない日常〉であるような生活をしていれば、混乱も矛盾もなくGR IIIxで写真が撮れるではないか。
 

いや、それをしてしまったら、わざわざスナップ映えする生活をしていることにならないだろうか。iPhoneを持ったばかりに、インスタ映えする生活を探し求めるのと同じ行為になってしまうだろう。これは本末転倒である。
 

そのあたりは黙っていればバレないにしても、目の前だけを何とかすればいいインスタ映えに比べて、生活そのものをスナップ映えするように変えるのは、かなりハードルが高い。
 

こうした休むに似たりの考えで邪心をこじらせるよりも、とにかくカメラを持って外に出れば、自ずと答えは出るのかもしれない。
 

と思ってGR IIIxを持って外に出てみてわかるのは、〈日常〉や「日常」どころか、ただの日常もあるのかないのかわからないような、ぼんやりとした生活をしているという現実である。
 

ぼんやりとした生活を、ぼんやりと撮る。これははたしてスナップシューティングなのだろうか。

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