top コラム写真を編む人へ第1回 写真編集者 大田通貴【蒼穹舎】(前編)

写真を編む人へ

第1回 写真編集者 大田通貴【蒼穹舎】(前編)

2023/04/21
タカザワケンジ

手がけた写真集は約300冊。
一貫して「作家の写真集」を手がけてきた大田通貴さん(蒼穹舎)に聞く

 

写真家のことを知りたければ写真集を見ればいい。
 

写真展も盛んに開かれているが、期間が限られ、地域が離れれば見に行けない。しかし写真集なら時間も空間も超えて見ることができる。加えて、写真が複製技術として発展してきた歴史を考えれば、印刷されて人の手に渡っていく写真集はいかにも写真らしい発表方法だと言える。
 

私自身、写真集の編集に構成や解説で関わってきた。そして、自分で経験してもなお、解けない謎があると感じている。その謎についてはこの連載でおいおい書いていきたいが(まだ十分に言葉にできていないので)、ここで少しだけ書くなら、写真というとらえどころのないものが編集されることによって、理解しやすくなったり、その逆に、さらに謎が深まったりするということである。


抽象的な書き方で恐縮だが、写真集を見ている人なら感覚的に理解できるのではないだろうか。わかるようでわからないのが写真で、写真集もまた、その写真の本質をあらわにする形式だと思うのだ。
 

さて、では写真集の謎をどうやって明らかにしていこうか。
 

写真集の著者(作者)は写真家である。写真集について知りたければ、まず写真家にインタビューするのが筋だろう。私自身、実際にこれまでそうしてきたし、写真家へのインタビューはしばしばメディアに掲載される。しかし、写真家が言葉にできない要素が写真集にはあるのではないだろうか。


なぜなら写真集には何人もが関わるからだ。たとえば、本の装幀デザインとレイアウト、印刷、製本、そして編集者である。


写真集に関わる人たちの中で、とくに編集者を取り上げようと思ったのは、その仕事が見えづらいからだ。デザインも印刷製本も写真集を手にとって開けばその重要性はわかる。しかし編集者が写真集にどのように関わり、何をどこまでやったのかはわかりづらい。写真集によってもその関わり方はさまざまだろう。そこで写真編集者たちに話を聞こうと考えた。

 

インタビューの前にもう少しだけ。
 

「写真集」とは何だろうか。
 

この連載でいう写真集とは「作家の写真集」である。写真集というと、一般的には動物やアイドル、ヌード、建築、絶景といった被写体を中心とした本を思い浮かべると思う。それらの多くは被写体の魅力に読者の関心があり、写真家の存在は透明化されている。
 

しかし「作家の写真集」は違う。写真家の個性が写真集の魅力の源泉となる。写っているものへの興味だけでなく、なぜ撮影したのか、なぜこのように表現したのかに引きつけられる。被写体中心の写真が写真家を透明な存在だとすれば、作家の写真集はどの写真にも透かしのように作家のまなざしが写り込んでいる。私たちはつねに作家を介して写っているものを見ることになるのである。
 

作家の写真集とは、詩人が詩集を編むように、写真を編んでつくられた「作品」である。詩が一篇一篇に多様な解釈ができるように、写真もまた一枚一枚を「読む」ことで想像力が刺激される。詩は、タイトルがつけられ一冊の本になったときに、一篇だけでは見えてこなかった詩人の姿が浮かび上がる。写真集もまた、写真が編まれることによって写真家の思想や哲学が見えてくる。
 

したがって写真編集者は写真集を世に生み出す介助役にたとえられる。生み出すのは写真家だが、その手助けを行うという意味だ。しかしその手助けが具体的にどのようなものかははっきりしない。物理的には、写真家とデザイナー、印刷・製本所があれば写真集はできるからだ。


写真編集者は写真集に必要なのか。何をし、どのように写真集に貢献しているのか。そして、写真編集者とは何者なのか。
 

まず話を聞きたかったのは大田通貴さんだ。
 

この国でもっともたくさんの写真集を編んできた人である。写真集出版を専門に手がける蒼穹舎を立ち上げてから今年で37年。300冊弱の写真集を手がけてきた大田さんにとって、写真を編集するとはどういうことなのだろうか。(以下、敬称略)

 

これまで大田さんが手がけたたくさんの写真集が並ぶ、蒼穹舎の店内

他社の出版物や古本、自費出版の小冊子なども陳列、販売されている

 

最初に編集者という仕事について聞いた。まず挙がったのは伝説的な文芸編集者であり出版社の創業者の名前だった。


「(意識にあったのは)編集者というより出版社ですね。もともと文学のほうで出版をやろうかと思ってたから。念頭にあったのは筑摩書房の古田晁(1906 - 1973)、小澤書店の長谷川郁夫(1947-2020)だけど、レベルが違う。決して追いつけない存在です」


古田晁は1940(昭和15)年に筑摩書房を設立し、『中野重治随筆抄』を出版。臼井吉見編集長の雑誌『展望』や文芸書の出版で筑摩書房を一流の出版社に育て上げた。長谷川郁夫は大学在学中に小澤書店を立ち上げ、「20世紀の詩人」シリーズや個人全集を精力的に刊行したほか、『吉田健一』や『編集者 漱石』などの著書がある。ともに自分が良いと思った作品を出版する名編集者にして名経営者である。

 

——文芸編集者から名前を覚えたんですね。


大田 文学は文学編集者が良すぎるっていうか。中島和夫(1924-)、野原一夫(1922-1999)、小島千加子(1928-)、宮田毬栄(1936-)とか。文章を書いてもすごいし、ある時代の文芸を支えていたわけじゃないですか。僕の世代ではもうその世界には入れないから。


──写真編集者は視野に入っていましたか。


大田 当時は写真編集者なんてほとんどいなかったんじゃないですか。出版社から出る写真集は、朝日ソノラマ以外、まともなものがなかった。僕が見ていたのは作家の私家本。いいものがいっぱいあった。とくに鈴木清(1943-2000)とか田村彰英(1947-)とか。その前だと『写真よさようなら』(1972)の写真評論社ね、あれだって吉村(伸哉)さんと作家の個人出版みたいなものじゃないですか。

 

写真評論社は森山大道の『写真よさようなら』や雑誌『季刊 写真映像』で知られる。吉村伸哉(1933-1977)は『現代写真の名作研究』(1970・写真評論社)の写真評論家であり、写真評論社を主宰した。
 

朝日ソノラマは「ソノラマ写真選書」を出していた。その編集者が長谷川明(1949 - 2014)である。のちに長谷川は大田さんが深瀬昌久の『鴉』を出版するきっかけをつくり、編集も共同で行っている。

 

——大手出版社だと、長谷川明の「ソノラマ写真選書」(全27巻、1977-1980)と、その前の、山岸章二(1928 - 1979)が編集した中央公論社の「映像の現代」(全10巻、1971-1972)くらいしかないですね。


大田 「ソノラマ写真選書」は好きだったけど、「映像の現代」は、僕はそんなに評価してなかった。植田正治の『童暦』とか、奈良原一高の『王国』とかはあとで見るとすごいと思うようになりましたけど。とくに森山(大道)さんの『狩人』(1972)に、「違うだろう」っていう不満があって。僕は『狩人』のもとになったカメラ雑誌の連載を見ていて、そこでイメージしていた森山大道がぜんぜん出ていない。それで『狩人』が違うと思って、のちにつくったのが、『Moriyama Daido 1970-1979』(1989・蒼穹舎)。『狩人』の練り直しです。

 

そもそも大田は高校時代からカメラ雑誌を見ていて、森山大道(1938-)、北井一夫(1944-)、柳沢信(1936-2008)らの写真が好きだった(いずれの作家の写真集も編集を手がけることになる)。
 

いまはもうない『カメラ毎日』(1954-1985)、『アサヒカメラ』(1926-2020)、『日本カメラ』(1950-2021)は、カメラの情報だけでなく、写真家が「作品」を発表する場でもあった。しかし、そうした「作品」が写真集にまとめられ、刊行されることは稀だった。現代よりも写真集を刊行するハードルは高かったのだ。大田が目をとめた鈴木清らの私家版は、まぎれもなく作家の写真集であり、現在では古書価格も高騰している。しかし、好況だった日本の出版界は少部数の写真集に冷淡だった。


既存の写真集、とくに大手出版社のものへの不満。「作家の写真集」に対する共感と、出版されたものへの批評的な視点から、大田は写真集出版の道へと入っていった。大田の言によれば「写真はそういう意味で、僕が入っていく隙間があった」からだ。

 

——森山さんたちより前の世代、細江英公、川田喜久治、東松照明の写真集はどうですか? 川田喜久治の『地図』(1964、美術出版社)とか。


大田 『地図』は僕が最初に買ったに近い「作家の写真集」。1万円、いや五千円だったかな? 古書店の目録で普通に買えましたね。


——いまは高値ですが、発売当時は売れなくて、古書店にゾッキ本として出ていたなんて話も聞きますね。


大田 作家の写真集はぜんぶそうでしょう。(中平卓馬の)『来たるべき言葉のために』(1970・風土社)なんて1,500円で買いました。そういう写真集は、喇嘛舎(らましゃ)が問屋値でさらに安く500円だか1000円だかで100冊とか買って、こんなゴミ買ってどうすんだ、とばかにされてたんですよ。それを寝かせておいてあとで価値が上がってから売っていた。

 

喇嘛舎は三軒茶屋で創業し、現在は神保町にある古書店。サブカルチャーの品揃えを充実させた先駆的な古書店。絵本作家の片山健『美しい日々 片山健画集』(1985)、漫画家の石井隆の画集『さみしげな女たち』(1983)などの出版も手がけたことでも有名だ。

 

大田 僕は喇嘛舎ができて一年か、二年目からの客。そのときはまだ大学生でした。ぼろぼろのヘンな店があって、中に入ると写真のすごい本がずらっと並んでる。店主の長田(俊一)さんはサラリーマンからいきなり古本屋を始めた人で、業界外から来たこともあって発想も斬新だった。喇嘛舎が自分のところで出していた本がすごくレベル高くて、僕はそれを真似して蒼穹舎を始めたところもあります。でも、喇嘛舎のほうは出版をやめちゃうんだけど。


——喇嘛舎も大手出版社が手がけない、知る人ぞ知る漫画家の作品に目をとめたわけですが、写真集もその可能性があると。


大田 写真作家の私家版を見て、写真集ってこんなにすごい表現ができるのかと思ったんです。(森山大道の)『写真よさようなら』と(橋本照嵩の)『瞽女(ごぜ)』(1974年・のら社)と(北井一夫の)『三里塚』(1971年・のら社)でしょ。高校三年のときにこの三冊買った。こんな世界があるんだ! と思ったけど、その世界に入ってみると道なんかないんだよね(笑)。

 

写真家たちは「作品」としての写真集をつくろうとした。『瞽女(ごぜ)』『三里塚』の発行元、のら社は北井一夫、橋本照嵩らが立ち上げた出版レーベル。編集は『アサヒカメラ』の写真編集者、大崎紀夫だ。
 

一方、大手出版社にとって、写真は多くの場合、情報を伝えるためのイラストレーションでしかなかった。説明か、あるいはせいぜいアイキャッチ。大田は出版社に入って編集者になろうとは考えず、かつての文芸編集者たちのように、自分で出版社を起こすことを考えていた。しかし当然のことながら、それもすぐにというわけにはいかず、大学を卒業したあとは食品会社に就職。『写真時代』という写真雑誌に載った、深瀬昌久の『鴉』を写真集として出す出版社はないのか、という長谷川明の呼びかけに応えて、個人的に資金をつくり出版にこぎ着けた。三十歳の時だ。そのあたりのいきさつはすでによく知られている。ご存じない方は、東京都写真美術館ニュース「eyes」112(2023年3月発行)に掲載された大田さんへのインタビューと、Webのみの追補(編集者・大田通貴インタビュー[追補版])を書いたので読んでいただきたい。そちらは主に『鴉』について聞いている。

 

深瀬昌久『鴉』(1986) 編集:大田通貴+長谷川明

 

——大田さんが発行人、長谷川明さんが編集というクレジットの『鴉』はいまや世界的に評価される写真集です。蒼穹舎のサイトに載っている最初期のインタビュー(日本カメラ1987年)では、売れなくて在庫が大変。だけど、つくりつづけますと語っていますね。


大田 こんなに売れない世界だと思っていなかった。ちょっとマニアックな漫画くらいは売れるだろうと思っていたから。

 

1986年12月に『鴉』、約1年後の1987年11月に蒼穹舎にとって二冊目の写真集となる森山大道の『仲治への旅』が刊行される。長谷川明の紹介で高校時代からのあこがれだった森山大道に会った大田は、森山から「『鴉』をつくったあなただったらやってもいいよ」と言われ、写真集をつくることになった。
 

1987年4月。写真集をつくるという目的で会ったその日に、森山から「好きに作ってください」とダンボール箱に入った写真を見せられた。箱には1000枚ほどのプリントが入っていたという。「お試しみたいな感じですね。森山さんはつまんなかったらこいつを切ろうと思っていたんじゃないかな(笑)」。写真を通してしか知らなかった存在を向き合い、写真を選ぶ。隣に『続にっぽん劇場 写真帖』(1978、朝日ソノラマ)を編集し、森山と昵懇の長谷川明がいたとはいえ、緊張したのではないかと思うのだが、大田にとってはむしろ「こんなことまでやっていいんだ。めちゃくちゃ面白い」と感じたという。


写真のセレクトと並び順は、森山大道がマンションの一室につくった私設ギャラリー「room 801」で行った。床に写真を広げ、森山、長谷川とともに写真を選ぶ。選びと順番が完成し、自宅に帰った大田に森山から電話があった。「あれだったらやめましょう」。


どうやら選びと並びに満足していなかったらしい。編集構成は長谷川主導で行われていたから、その構成に納得できなかったのか。それとも新参の大田の実力を測る意図があったのか。いずれにせよ、もう一度編集をし直し、私たちがいま見る『仲治への旅』になった。

 

森山大道『仲治への旅』(1997) 編集・装幀:大田通貴+長谷川明

 

ちなみに、そのダンボール箱の中から大田が選んで持ち帰った写真はその後、『水の夢』という写真集の一部になり、さらに残された写真が、2022年に『「1980年代 余話」1980s Remnants』として写真集になっている。1980年代の森山の写真プリントが大田に預けられたままになっていたのだが、2022年になって、森山の作品を収蔵している島根県立美術館に入れることになった。大田は約20年ぶりにプリントを見直し、写真集になるとひらめいた。

 

森山大道『水の夢』(1999)編集:大田通貴

森山大道『余話』(2022) 編集:大田通貴

 

大田 残っていた46枚のうち44枚を使っています。僕の手元にあるのはあれでぜんぶです。90年代には、これは本にならないと思ったのが「あ、できちゃう」みたいな感じで、1時間くらいで構成ができました。


だけど、この前、『写真時代』が大量に出てきて蒼穹舎の店頭に並べたんですが、あらためて見ると「あれ? 森山さんの写真、思っていたのとけっこう違うなあ」と思ったんですよ。「写真時代」の森山さんは、もっとえぐいというか、生身というか、人間的というか。1960〜70年代だけじゃなく、80年代の森山さんもそうだったんだなと。だから、『サン・ルゥへの手紙』(1990・河出書房新社)ができたんだなと思いました。
 

『サン・ルゥへの手紙』は『仲治への旅』で選ばなかったプリントを軸に森山さんが再構成しなおしたもの。仲治で自分で満足いかなかったところを、自分のものとしてつくったんでしょうね。去年、『サン・ルゥへの手紙』を久々に見て「けっこう強いな」と思ったんですが、『写真時代』を見たら、『サン・ルゥへの手紙』のほうが生の森山さんに近かった。『仲治への旅』の選びは僕の中の森山さんだったんだなと思いました。

 

『写真時代』(1981-1988)は、雑誌編集者の末井昭が荒木経惟と出会ってつくられた写真雑誌。荒木の「三大連載」のほか、赤瀬川原平が連載したり、森山や倉田精二、北島敬三ら写真作家が登場するという幅広さがあった。長谷川明が深瀬昌久の『鴉』の写真集出版を呼びかけたのもこの雑誌だ。しかし、荒木を前面に出していることもあり、誌面ではヌード写真が幅をきかせスキャンダラスな表現が目立つ。蒼穹舎の写真集の系譜とは明らかに違う。大田は「写真時代」から森山大道と、『写真時代21』の編集に携わっていた浜田蜂朗(1941-1996)の写真をピックアップしてを写真集『殺風景』(1997)にしている。
 

『仲治への旅』のあとに1年空いて、『MORIYAMA Daido 1970-1979』(1989)、そして、北井一夫写真集『いつか見た風景』(1990)と年にほぼ1冊のペースで蒼穹舎から写真集が刊行されている。ここまではすでにキャリアのある写真家の写真集であり、大田が十代の頃から見ていた写真だった。

 

しかし、1991年に尾仲浩二写真集『背高あわだち草』を出したことで転機を迎える。『背高あわだち草』はこれまでの蒼穹舎の写真集と違い、写真家自身が運営する自主ギャラリー「街道」を中心に活動してきた若手作家、尾仲浩二の初写真集だったことだ。

 

尾仲浩二『背高あわだち草』(1991) 編集:大田通貴+長谷川明

 

——『背高あわだち草』(1991)はどういういきさつでつくることになったんですか。


大田 尾仲くんが「街道」でやっていた展示に通い続けて三年の成果。僕が出そうと思ったわけじゃなくて、尾仲くんに「本になるんじゃない?」って言ったんですよ。これだけの質と量の写真があれば写真集になるだろうと。そうしたら、尾仲くんが、彼は覚えていないだろうけど、新宿ゴールデン街でお酒を飲んで話をしようということになって。飲んで話しているうちに「大田さん、いい本つくろうね」って、尾仲くんがふわーっと走りながら飛んでったのね。永島慎司の漫画みたいだなって。それでつくることになったんです。


——幻想的ですね(笑)。でも、のっぽの尾仲さんがふわーっと、というのは目に浮かぶようです。


大田 その次が山内(道雄)さんの『Stadt 街』(1992)。森山さんが、『背高あわだち草』が自分の想像を超えていいものになったから、次は山内をやってみてほしい、というんですよ。このままだったら、山内が写真家としてつぶれてしまうから、と。正直、僕は当時、山内さんの写真がよくわからなかったんです。ストリートスナップの良さがわからなかったから。その後にだいぶかかってわかるようになりましたけどね。「僕はスナップわかりませんよ」「大田さんが引っかかるのだけまとめて拾ってもらえばいいから」というやりとりが森山さんとあって、それで蒼穹舎で『Stadt 街』、Place M名義で山内さん個人で『人へ』をつくりました。

 

尾仲浩二も山内道雄もともに写真学校時代に森山大道に師事し、森山らが始めた自主ギャラリーイメージショップCAMPのメンバーでもあった。尾仲はCAMP解散後に同じくCAMPのメンバーだった藤田進と自主ギャラリー「街道」(1988- 現在は中野で第三期「街道」を運営)をつくり、32回連続個展を開催。その成果が『背高あわだち草』に結実した。一方、山内は瀬戸正人らとともにPlace Mの設立に参画している(のちに離脱)。


尾仲も山内も展覧会で作品を発表しており、足を運んでいた大田にとってなじみのある写真作家だった。
 

1993年に森山大道の『COLOR』、1994年に野口賢一郎の『失楽園』を刊行。年一冊ペースが続いていたが、1995年と1996年に刊行がない。1996年に役員を務めていた勤務先の食品会社がつぶれたのである。写真編集・発行人を支えるもう一足のわらじがなくなってしまった。

 

森山大道『COLOR』(1993) 編集:大田通貴 制作協力:長谷川明

 

——それで古書店を始めたんですね。


大田 会社がつぶれて何をしようかなと。喇嘛舎で「大田さんは写真集をたぶん日本でいちばん持っているから、持っているものを売ればいい」と言われたんです。その頃は、古書店市場も良かったから「売れば自然と品物も入ってくるし、エンドレスで回るよ」と。実際、好調でしたね。そのときは出版はもういいや、と一回あきらめかけたんです。誰も褒めてくれないから。とくに森山さんの『COLOR』なんて、自分ではすごいと思っていたし、実際すごいんだけど、まったく反響がなかった。世間ではヒステリックグラマーから出た『Daido hysteric no.4』(1993)に注目が集まって、森山さんのデザイン的なかっこいい写真のほうがウケていた。僕はちょっと違うんじゃないかと思っていたけど。

 

大田は津田基が主宰するギャラリー兼出版社のmoleの一角に店舗を構えた。
 

その頃、会社員だった私は、moleがあった四谷三丁目が勤務先だったので、昼休みによくのぞいていた。不思議と展示はあまり覚えていないのだが、写真集の新刊、古書が並んでいたスペースはよく覚えている。何冊か写真集も買った。だがレジにいたはずの大田と言葉を交わすことはなかった。もしもそこで話をしていたら、もう少し早く写真に関わっていたかもしれない。
 

写真集出版をやめようと思ったという大田だが、1997年に三冊の写真集を刊行し活動を活発化させている。山内道雄『香港』(9月23日)、楢橋朝子写真集『NU・E』(11月22日)、浜田蜂朗写真集『殺風景』(12月1日)である。

 

浜田蜂朗『殺風景』(1977) 編集:浜田蜂朗写真集刊行会

 

——楢橋さんと浜田さんはどちらも最初の写真集ですね。浜田さんは亡くなられた後の追悼写真集ですが。

 

大田 山内さんと楢橋さんは制作費を用意するから編集と発行をしてほしいと。浜田さんは編集が浜田蜂朗写真集刊行会(森山大道、大田通貴、丹野清和、尾仲浩二、神林豊)名義になっているけれど、実質的には僕。

 

——『殺風景』は凄みのある写真集ですよね。『NU・E』は楢橋さんの最初の写真集。

 

楢橋朝子『NU・E』 編集:大田通貴

 

大田 『春の曙』(1989年、街道で個展を3回。1990年に03 PHOTOSをオープン)が最近、写真集になったけど(2023、OSIRIS)、展示をぜんぶ見ていて、写真集に入っている写真もほとんど覚えてる。『NU・E』の頃の03 FOTOSにも展示替えごとに通っていたしね。


——編集名義が山内さんの『香港』以降は大田さん単独になっていますね。それまでの蒼穹舎の本は長谷川さん名義か、大田さんと長谷川さんの共同編集になっていました。


大田 そう。実はまだこの頃まで長谷川さん抜きで本をつくったことはなかった。一冊目の『鴉』の時から、僕は選ぶことはできたけど並びを決める自信がなかった。それで長谷川さんに手伝ってもらっていた。でも長谷川さんがこの年、ひどい鬱病になっちゃって、仕事どころではなくなってしまったんです。


『香港』と『NU・E』を同時くらいに頼まれたんだけど、編集できないとは言えない。で、やってみたらできちゃった。でも、たぶんこの頃の編集は長谷川さん風だと思う。長谷川さんから覚えたやり方というか、長谷川さんを見ていて身体で勝手に覚えちゃったやり方ですね。


——(『NU・E』のページをめくりながら)連想ゲームみたいにスムースに流れていきますね。異界にさまよい込んでいくような。


大田 あまり見返してないけど。楢橋さんは『フニクリ フニクラ / Funiculi Funicula』(2003)のほうがすごいところに行ってるから。


——『フニクリ フニクラ / Funiculi Funicula』はカラーということもあるし、タイトルからして明るい空虚さみたいな一面もあって複雑な写真集だと思います。『NU・E』はもっと湿度が高くて重く沈んでいくような世界。文学性が高いというか、一枚一枚の物語性が強いと思いますね。


大田 楢橋さんは森山さんより深瀬さんに近かったんじゃないかな。楢橋さん自体が『NU・E』だから。

 

1998年に石内都の『YOKOSUKA AGAIN 1980-1990』、1999年に森山大道の『水の夢』、もう一冊のカラー『MORIYAMA Daido COLOR2』を刊行し、蒼穹舎の90年代は終わる。

 

ここまで大田さんの1990年代までの歩みを聞いてきた。十代の頃にカメラ雑誌で見た写真家たちの作品と、平行して手にした写真家による私家版の写真集から大田さんの写真編集は始まってる。前出の『鴉』のインタビューで聞いたのだが、リー・フリードランダーらアメリカ写真の写真集もよく見ていたそうだ。文学についての素養も含めて、大田さんの土台になっているものが複数あることがわかる。そして、数多くの写真集と文学をはじめとする読書が写真編集を始める準備になっていたのだろう。


蒼穹舎を立ち上げて以降は、写真を見る立場から写真集をつくる立場になり、写真家としての交流も広がっていく。90年代はその基礎となった時代と位置づけられる。


インタビュー後半は2000年代以降、Hysteric Glamourから刊行された写真集、ワイズ出版の「ワイズ出版写真叢書」など、蒼穹舎以外の写真集にも編集者として関わり始め、さらに写真編集の経験を積み重ねていった大田さんが、写真編集についてどんな考えを持ち、どのように編集しているのかを紹介したい。

 

 

【プロフィール】
大田通貴(おおた・みちたか)
編集者・蒼穹舎代表。1956年生まれ。1986年「蒼穹舎」を設立。1986年に深瀬昌久『鴉』を皮切りに、森山大道、北井一夫、石内都、山内道雄をはじめ、写真集300冊弱を手掛ける。2008年日本写真協会文化振興賞を受賞。2008年よりギャラリー/書肆「蒼穹舎」として活動を続ける。

 

 

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