別にこれといって書くこともないのだが、それにしてもコロナ禍である。
一年と少し前の書評に、こんなことを書いていた。
いま私たちは口々に「落ちついたら」といっているが、「落ちついたら」どのように生きていきたいのだろうか。
このときは、いずれ落ち着くのだろうと思っていたのだろう。そもそも、落ち着くとはどういうことなのか。落ち着くも何も、ステイホームな日々では落ち着くしかない。むしろ、そわそわしたらいけない。
と、書いてみて、ようやく気づいた。落ち着くのは人ではなく、新型コロナウイルスという意味で、落ち着くというのは、収束あるいは終息の婉曲表現だったのか。気づくのが遅すぎる。
と、書いてみて、ウイルスとウィルス、どちらが用いられているのか気になった。どうやら、ウイルスという表記が一般的なようである。もしや、フィルムとフイルムでも、フイルムが一般的なのかと思ったが、こちらの表記はみなさんご存知のとおり、富士フイルムがほとんどのようである。
ウイルスといえば、カメラにウイルスという言葉を使うのが流行ったことがある(ちなみに、この言葉の流行源と思われる赤瀬川原平さんの本のタイトルは『中古カメラウィルス図鑑』で、ウィルス表記)。コロナ禍で、コンピューターウイルスという言葉ですら紛らわしい感があるので、カメラウイルスという言葉の使い方は、フェードアウトしていくのかもしれない。
コロナ禍は、こんなふうに、言葉にも影響を与えている。たとえば、展覧会の案内は、「このような状況ですが」ではじまり、「感染症対策」をはさみ、「ご無理なさらずに」で締め括られるのが定番になっている。どんな内容の展覧会でも、ほぼこのバリエーションになりつつあるのが興味深い。これらの言葉がいつの間にか消えていった時が、落ち着いたときということになるのだろうか。
言葉といえば、同じ危機でも、2011年の震災の時は「写真にできること」というフレーズが広がっていったように思うが、コロナ禍をめぐって「写真にできること」というフレーズが使われることはないようだ。もちろん、比べるようなことでもないのだが。
コロナ禍以前の光景も、そろそろ朧げになっている。個人的には、2020年2月8日に開催していただいた、日本カメラ博物館講演会「カメラと写真家と」の光景が思い出される。あれが私にとっての、もっとも印象的なコロナ禍以前の光景かもしれない(奇しくもこの光景を共有することになった、ご来場していただいた方々に、あらためて感謝申し上げます)。
講演会の前後を思い出してみる。1月30日に世界保健機関(WHO)の「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」に当たるという宣言があったものの、緊張感はそれほど高まっていなかったと思う。2月14日にはCP+2020の中止が決定され、東京マラソンなどさまざまなイベントの規模縮小や中止が発表されていった。26日、東京ドームでのPerfumeの2日目公演が開催当日に急遽中止となったあたりが、緊張感の分岐点だったかもしれない。
こんなことを時たま考えるともなく考えながら、日々曖昧になっていく、コロナ禍以前の光景、以後の光景を、どうやったら覚えていられるか、というようなことをぼんやりと考えている。
(2021年9月記)
2020年2月下旬 銀座
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