いつの間にか、ある歌が頭に棲みつき、幾度となく脳内で再生されるという経験は、誰にでもあるのではないだろうか。この一、二ヶ月くらい、「昔の名前で出ています」が、私にとってのその歌である。
そのせいでもないのだろうが、ある人気展に展示されていた資料に記されていた撮影者名が目に留まった。その名前とは、ポール・ナダールとタルボット。作品と作者名ではなく、資料と撮影者名という扱い方に虚を突かれたような気がした。
また別の展覧会では、掲載誌の撮影者名として、早崎治、立木義浩、吉田大朋といった写真家の名前が記されていた。その展覧会では「レンズ効果」という独特のキーワードに注目したセクションもあった。写真表現との関連を考えたくなるという意味でも、興味深い展覧会かもしれない、などと他人事のように思った。
今年の桜の開花は早かった。東京・靖国神社で桜の開花発表が3月14日。観測史上最も早い開花だったという。とはいえ、2020年、2021年の開花日も同じだったと言うから、もはや桜はこの時期に咲くものになったのかもしれない。満開は3月22日。花見が解禁された公園も多かったはずなので、さぞかし盛り上がったのだろうと思ったのだが、ニュースを見ても、それほどでもないようだった。天気がよかった見ごろの休日が少なかったこともあるだろうが、盛り上がるといってもかつての日常に戻ったというだけのことなので、ドラマチックなシーンがあるわけでもないのだろう。
ウィズコロナ、ポストコロナ、なんと呼ぶのが適切なのかはわからないが、いまここで進みつつある変容は、そのようなものなのかもしれない。3月13日から、マスク着用が個人の判断となったにもかかわらず、多くの人がいまだにマスクを着用していることがニュースになったりもしているが、いずれ、多数がマスクを外す日が来ても、高揚感もないだろうし、ニュースにもなりにくいだろう。マスクをしていないという、見慣れた光景が戻ってくるだけのことだからである。
展覧会場の入り口などでの、検温、手指消毒なども、緩和されつつあるようだ。検温などがあっても、たんなるルーティンになっているので、記憶に残らない。これも、いずれなくなる日が来るのだろうが、その日が来たことに気づくだろうか。
コロナ禍は、どのように収束あるいは終息するのか、それを感じとってみたいと思っていたのだが、感じとれないということこそが、収束あるいは終息の意味なのだろうか。たとえば、風化させてはならないと語るためには、風化を感じなくてはならない。けれども、感じないからこそ風化するわけで、風化するいまここを感じとるのは、そもそも可能なのか。
コロナ禍の初期、寄り添うという言葉があまり使われなくなったような気がした。気がしただけで変わっていなかったのかもしれない。ネット時代だから、寄り添うという言葉の出現数を調べたりすれば、ある程度、事実もわかるだろう。しかし、その事実に関心があるわけではない。寄り添うという言葉の活用が、わずかだが変化することによって、決定的に意味が変わってしまったのだろうか、というような問いに興味があるのである。
ところで、冒頭に書いた「昔の名前で出ています」が幾度となく脳内で再生されているうちに、その次の歌を考えるようになってしまった。森進一の「港町ブルース」はどうだろう。その次は、吉田拓郎「古いメロディー」。その次は、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズの「カモン・アイリーン」、と思いついて検索したところ、2022年に「本来あるべき姿(as it should have sounded)」バージョンと呼ばれる新たなミックスが発表されていたことを知った。
「この歌を永遠に口ずさむよ」というフレーズがあるこの歌に、本来あるべき姿があるというのも、いささか奇妙な感じがする。永遠に口ずさむといっていたその歌は、本来あるべき姿ではなかったというのだろうか。
さて、新型コロナの感染症法上の位置づけが、2類相当から5類に移行する5月8日が近づいてきた。私たちは、そのとき、どんな姿をしているのだろう。私たちは、そもそも、どんな姿をしていたのだろうか。
(2023年4月記)
2022年9月中旬 三ノ輪
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