時評ということで、時評っぽいトピックをメモしている。たとえば「おじさん構文」と書いてある。何についての話だったのか思い出せる人はいるだろうか。
昨年の秋頃、ネットで一瞬話題になった言葉だった記憶があるが、リアルタイム検索で見てみると、今年の1月4日にも、再度ある程度話題になったようだ。
ネットは時評的に見えて、そうではない。その時見たものが最新に見えるだけで、情報はいつの情報かわからない。じっさい数年後にこの文章だけ読んでも、昨年の秋とか、今年の1月4日と書いてあるだけで、更新日を確認しないと、いつなのかわからないだろう。
ネットでは、書いて出し(なんていう言葉はあるのだろうか)が普通なので、たいてい書いた時と更新日はそれほど違っていない場合が多いだろう。しかし、事前に書いて更新している場合も、もちろんある。この時評も末尾に書いた時期を記してある。
このあたりの時評性は、紙媒体では明快だ。どこかに発行日が記されており、発売日はたいていそれより前で、執筆はさらに前だ。雑誌の場合、書き手は、発売日あたりに読まれることを前提に書くだろう。たとえば月刊誌では、1月号は12月発売で、内容は新年向けだが、執筆は11月頃かもしれない。12月発売の1月号が新年号だというのは建前にすぎないが、読者もその建前を共有している。要するに、いわゆるお約束である。
いま、オミクロン株によって新型コロナウイルスの感染者が急増しているが、こうした状況が刻々と変化しているトピックは、月刊誌では扱いにくいだろう。週刊誌でも扱いにくいくらいかもしれない。ではネットでは扱いやすいのかといえば、そうでもない。いつ読まれるのかわからないからだ。
いつ書き、いつ読まれるのか、ということ以前に、このコロナ禍は何とも語りにくい。多くの場合、災いは風化させてはならないはずだが、ことコロナ禍に関しては、人びとは、一刻も早くマスクを外し、風化させたいと願っているようにもみえる。それも特定の国や文化がそうだというわけでもない。ニュースなどを見る限り、世界中がそうであるようにみえる(少なくとも、コロナ禍が収束あるいは終息しても、このままマスク手洗いを徹底しようという話は聞かない)。そんななかで写真の強度なるものは、どこに何を刻んでいるのだろうか。
話は冒頭の「おじさん構文」に戻るが、こうした同時代の現象を追うことには、どのくらい意味があるのだろう。人の噂も七十五日というが、ネット時代においては、3日前のトピックはもちろん、昨日のトピックも古く感じてしまうことがしばしばだ。1年も経ったら誰も振り返らず、3年もしたら消えてしまっているようなトピックは、スルーしておいてもいいのかもしれない。たとえば話題の映画もすぐに見ないで、3年くらい経って評価されていたら見るようにすれば効率的だろう。
しかし、同時代的とは、こうして時間が経ったら忘れ去られているようなことを、経験的に共有していることだともいえよう。この意味で、コロナ禍とは、まさに同時代的なできごとなのかもしれない。とするなら、そこでの風化とは、いかなるものなのだろうか。
このようなことをどこかで考えながら、昨年、紙媒体における時評的な意識で書いたのが、「デジタル化がもたらしたもの」(『日本の現代写真1985-2015』クレヴィス 2021年3月刊 所収)と、「消尽か、蒸発か。」(『写真』創刊号 ふげん社 2022年1月刊 所収)である。最後に宣伝という、ネット媒体にありがちなオチになって恐縮だが、ご高覧いただければ幸いです。
(2021年1月記)
2021年11月上旬 新宿
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