ある新聞社のカメラマン採用試験で、フィルム一本を渡され撮影してくる課題があり、数枚を残して帰ってきた者が合格になった、という話を聞いたことがある。報道カメラマンたるもの、いつなにが起きるかわからないのだから、フィルムを使い切ってしまうようでは論外というわけだ。都市伝説なのかもしれないが、よくできた話である。
逆にいうなら、そんな決定的瞬間を追い求める報道カメラマンではないのなら、フィルムを使い切ってしまっても問題ないし、そもそもカメラを持っていなくても問題ない、ということになる。決定的瞬間を求める撮影者の対極にいるのが、むやみにカメラを持ち歩かない撮影者なのだ。
昔の一眼レフは、標準レンズとケースをセットにして販売されることが多く、これを首から下げているのが、一番ダサいスタイルだったと思われていた。目立つ割に、すぐに撮影できない、貴重品を首から下げているだけの持ち方だからだ。
そもそもプロはケースなどつけない。首から下げるのも素人っぽいので、これを避けると、肩から下げたり、手に持ったままにすることになった。カメラは実用品なので、ちょっと雑に扱うくらいがちょうどいい。つねにカメラを見せているのもカッコ悪いので、撮影しないときにはカメラをバッグにしまっておく方がいい。そのバッグも、いかにもカメラ用ではなく、普通のバッグならなおいい。
つまり、目立たない姿で、撮影するときだけカメラを取り出し、すぐしまうのが理想のスタイルだった。なんの理想かというと、報道カメラマンではなく、プロでもなく、素人でもなく、ただただ写真を撮っているだけの者、つまり写真家としかいいようがない者の理想である。
このような撮影者が、出かけてもバッグから丸一日カメラを取り出さなかったらどうだろうか。他人から見ると、カメラを持っていないのと変わらないだろう。なんの理想かわからないような理想をつきつめる、というか、こじらせていくと、カメラを持たないただの人(を装う人)になっていくのである。そこからさらに進むと、カメラを持たずに、写真も撮らないのがカッコよく見えてしまったりするようになる。そんな己のスタイルに、屈折した優越感を感じてしまうようになるのである。
そのような者同士が集うと、誰がカメラを持っているかいないかもわからず、誰もカメラを取り出すこともせず、誰もカメラについて話さない、ということになる。写真家が集っているにもかかわらず、記念写真や会場写真が異様に残っていない時代があるのは、そんなことが理由ではないかと推測するのだが、いかがだろうか。
さて、こんなふうにこじらせまくっているときに、巨匠といわれる写真家が、屈託なく首からカメラを下げて撮影しているのを見かけたりすると、一周回ってこれでいいのだ、と思えてしまったりもする。いや、そもそも一周回っているのが才能がないということで、巨匠ははじめからこんなことを考えたりしていなかったに違いない。
もちろん、今の時代では、カメラが大好きなのにカメラに興味がないと嘯いたり、写真が撮りたくてたまらないのにカメラを取り出さなかったりといった痩せ我慢などは、流行らないというか、意味不明な身振りだろう。デジタルカメラによって変わったのは、案外このような身振りなのではないか、と思ったりもする。
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