Photo & Culture, Tokyo
コラム
top コラム狭間に咲いた仇花(あだばな)―ブリッジカメラとその意義―第5回  IZM300に至る道 ──元オリンパス開発者 小笠原氏インタビュー[その1]

狭間に咲いた仇花(あだばな)―ブリッジカメラとその意義―

第5回  IZM300に至る道 ──元オリンパス開発者 小笠原氏インタビュー[その1]

2025/06/03
佐藤成夫

『ブリッジカメラ』……この呼び名が通じる人はもしかしたら、既にあまり多くはないのかもしれない。ある属性のカメラとカメラの間に存在する、その中間的属性を持ったカメラのことである。これらはあたかも二つの異なる属性の間に橋を架けるような成り立ちであったため、これを指して「ブリッジ」カメラと呼ばれるようになった。
 
 
 今回はブリッジカメラの関係者インタビューとして、元オリンパスの開発者である小笠原裕司氏へのインタビューをお届けする。 
ブリッジカメラ初期のヒット作であるIZM300(イズム300)が生まれるまでの経緯を当時の開発者の目線で語って頂いた。
 
 

[略歴]
小笠原裕司(おがさわら・ゆうじ)
1957年愛知県生まれ。1981年オリンパス光学工業入社後、主にコンパクトカメラのメカニズムと電装設計に従事。1987年にスチルビデオカメラの開発に転じ、以降デジタルカメラ、HMD、4Kムービーカメラ等の開発、プロサポート・新宿ショールーム担当など幅広く担当し、退社後は星景写真家として活動している。


 
 
 


オリンパス IZM300(1988年)
 
 
 ──本日はよろしくお願いします。現在連載ではブリッジカメラについての各社の動きをまとめていまして、ブリッジカメラは何故生まれたのか、当時メーカーにいらっしゃった方から見てどのように見えていたのかについて、当時の関係者の方へ聞き取りを行っています。最初に当時の担当領域を教えて頂ければと思います。
 
小笠原:1981年にオリンパスに入社し、米谷美久(まいたに・よしひさ)氏率いるカメラ開発本部に配属されて、フィルムコンパクトカメラの開発に携わりました。その後1987年にスチルビデオの開発に転じたため、具体的な機種名で言うとピカソ(1983年)からIZM300(1988年)の開発途中まで関わっています。
 
 
 

オリンパスピカソ(1983年)
 
 
──ブリッジカメラの発売前後に、ちょうどその辺りの開発の最前線におられたということで、ブリッジカメラ前夜というか、そこに至るまでの流れというのはどのように感じていましたか?
 
小笠原:(ブリッジカメラに至るまでの)全自動コンパクトカメラの流れというのは、個人的にはキヤノンのオートボーイ(※1979年発売。赤外線を利用したアクティブAFの他、自動巻き上げ・巻き戻しにフラッシュ内蔵と当時としては高度な自動化を果たしていた)が始まりだと思っています。あの機種が出たことによって全自動のコンパクトカメラが売れるということがわかって、各社共に全自動のコンパクトカメラを作り始めたという流れです。
 
 
 

 

キヤノンオートボーイ初代(1979年)
 
 
──AFカメラといえば1977年のジャスピンコニカが有名でしたが、オートボーイはそこから2年で全自動化されていて、当時求められるコンパクトカメラの完成形だったように感じます。
 
 小笠原:オートボーイでコンパクトの全自動化が進んで、オリンパスもピカソ(※1983年発売。オリンパスAFLの愛称。全自動化に加えて電源をリチウム電池化することでフラッシュのチャージ速度を早めたのが特徴)で追従しました。こうして各社共に一通りオートボーイと同等のカメラが揃った中で、次はどう差別化するかって話になった結果二焦点カメラが出始めるんです。
 
 

オリンパスAF-1(1986年)
 
 
──二焦点カメラ自体は110等でそれ以前からあったようですが、それが135判のコンパクトに入り始めたのが1980年代半ばでした。これで一般的なニーズはカバー出来るようになったと言えます。
 
小笠原:レンズの後ろにコンバージョンレンズを入れることでコンパクトカメラでも望遠が写せるようになった。ただ全自動カメラもここらでもう行き止まりというか、どのメーカーでもAFがあって巻き上げ・巻き戻しは自動でフラッシュが付いてレンズバリアも自動で……ってなっていたので、スペック上は同じ横並びになってしまったんですね。こうした中で差別化するかという話で二焦点が始まった頃、オリンパスはピカソでリチウム電池を積んだんです。まぁこれはちょっとトラブルがあったり(後述)と大変だったんですが……。
 
──ボディ側の差別化が行き着くところまで行った結果、全体のトレンドが今度は二焦点レンズだということになったわけですね。そしておそらくはその先にズームも見えていたと。
 
小笠原:ただ、当時はまだアクティブAFしかなくてその性能も望遠を積んだ時には物足りないものだったんです。例えばAFステップ数が8段しかないのでテレ側には足りないとか。それでズームについてはAF側の進化を待っていたというのもありました。
 
──ちなみに、ピカソでのリチウム電池でのトラブルというと……
 
小笠原:ピカソについては開発に配属されて最初のカメラで、まだお手伝いという立場だったので設計そのものには深く関わっていないのですが、当時はリチウム電池は長寿命なので交換不要ということで本体に半田付けの上で電池蓋をネジ止めしてしまったんですね。その割には内部は複雑な造りで不具合や電池の消耗が……後継機では自分も一部設計を担当してこの問題は修正されました。
 
──ピカソはリチウム電池の初代モデルということもあり、その辺りの知見がまだなかったということなんですね。この時期の各社の動きに話を戻すと、二焦点モデルの後にズーム機(1986年:ペンタックス ズーム70)が現れます。35-70mmの2倍ズームでした。
 
小笠原:ペンタックスが2倍ということでオリンパスは2倍を通り越して3倍に行こうとした。追い越してやろうってことで。それがIZM300(1988年)のそもそもの始まりです。ただし、自分自身は先の通り発売までは見届けておらず途中で担当を外れています。
 
※オリンパスは公式サイトで「オリンパス初のズームカメラ」としてAZ-1(1987年)を発売しているが、IZM200(1989年)のことを「自社開発初となるズームコンパクト」と紹介している。間に挟まるIZM300はブリッジでコンパクト扱いではないとしても、じゃあAZ-1は自社開発ではないのかという話になる。まったく新しいIZM300にはある程度の時間が必要だったので、とりあえず目先の需要を埋める為の機種が必要だったということだろうか。
 
 


写真手前から、オリンパスAZ-330SUPER ZOOM、リコーMIRAI105、オリンパスIZM300。
 
 
──当連載ではブリッジカメラの第1号は京セラのサムライで、2番目がオリンパスのIZM300という見解です。この2機種は発売時期が近かったのでおそらく他社を見て開発したというわけではなかったと思うのですが、実際念頭にあったのは他社の2倍ズーム機だったんですね。
 
小笠原:2倍ズーム機に対しての差別化というのが始まりで、同様に他社も同じ事を考えていたということだと思います。それがたまたま時期が重なったということで。
 
──ある意味ではこのコンセプトにたどり着くのは必然だったと。まず今の2倍ズーム機と差別化を図るために。
 
小笠原:IZM300で最初に何をしたかというと、レンズ設計者に3倍ズームで作ったらどういう感じになるかというのを検討してもらって、そこから始まったんです。
 
 

 

──レンズが最初なんですね。
 
小笠原:レンズが最初です。それでいろいろ検討してもらった結果、35mmからの完全3倍は諦めて38から105mmになった。ただこの38-105mmでもレンズが12枚(※11群12枚)必要で、社内でも当時としては前例のないとんでもないレンズ構成だと言われてました。
 
──それまでのコンパクトカメラだったら単焦点で4枚とかで済んでたので12枚はとんでもない枚数ですよね。当然サイズも桁違いになるしで。
 
小笠原:ちなみにこのIZM300の本体のDX接点の造りはこれ以前のコンパクトで使用していた設計をそのまま転用しています。そういう意味でもこのカメラの出自はコンパクトなんですよ。
 
──まず3倍ズームのレンズがあって、それをコンパクトのメカと合わせるという作りなわけですね。ブリッジカメラには一眼レフからコンパクトに寄せた機種と、コンパクトから一眼レフに寄せた機種があると感じていましたが、IZMはコンパクトからスタートしたように見えたので自分の実感とも一致します。
 
小笠原:当時の自分はメカニズムと電気実装の担当だったんですが、開発の席の横にデザインの部隊も居たので昼休みとかにそっちに行って雑談したりしてたんですね。で、レンズの仕様だけ分かった開発のごく初期の頃に、デザイナーとこんな(当時のコンパクトでは考えられない)巨大なレンズどうするのという話になりまして、ある時ビデオカメラみたいだからグリップもビデオカメラみたいにしたらどうだって言ったんです。だから当初のデザインではここ(グリップとレンズ)が切れてるのがその後くっついてる。
 


 
写真工業掲載の当初デザインではグリップとレンズが分離している 
 
 実はこのさらに前のデザインがあって、当時はまずレンズとバッテリーだけをどう配置するかというところから検討してました。その時点ではファインダー・AF・フラッシュ等の配置は後回しにして。それで後からファインダーはここに入れるとか収めていった感じですね。
 
 


 
──この当初のモックアップだと、機構面では一眼レフっぽいデザインにも感じますが?
 
小笠原:最初からレンズシャッターしか考えていなかったです。レンズの設計もレンズシャッター前提で始めてますから。
 
──当時のオリンパスでは一眼レフの開発チームとコンパクトカメラの開発チームは分かれていたんですか?
 
小笠原:全然別です。それで一眼レフチームの方がちょっと偉そうというか(笑)。一方コンパクトカメラチームは一年ごとに新機種を作らなきゃいけないので、それに追われてるような状況でした。
 
──プロの道具としての一面や趣味性もある一眼レフと、実際に多くのユーザーが使って数が出るコンパクトカメラという構図だったんですね。デザインのルーツについては先ほど伺った通りですが、IZM300の設計ではどの辺りを担当されたのでしょうか? やはり電装系ですか?
 
 

 
 小笠原:それが、電装系ではなくシャッターの担当を命じられまして、そちらの経験はなかったものでだいぶ勉強しました。社内の資料室に籠もって調べ直したりして。ただ当時のコンパクトのシャッターメカというのは外部からの購入品だったもんだから社内にもなかなか肝心なところのノウハウがないんですね。一眼レフの方も基本的にフォーカルプレーンだけだから決まった設計を使い回してれば良くて。そういうわけで改めてJIS規格とか見直して、レポートにまとめてさぁこれから設計開始だってところでスチルビデオの開発に移ってしまったんです。なのでレポートは厳密に言うと未完成のままだったんですが、どうやらそれを元に設計は継続になったらしくて以降の担当者もそれを参考にしているらしいと(笑)。
 
──いわゆる虎の巻になったと(笑)。ただこうして自社で一度キチンと調べられていると技術を内に取り込むことが出来るので、メーカーにとっては大切なことだと感じます。
 
小笠原:自分たちよりも古い世代ですとシャッターも色々考えてやってたようなんですが、体系化はされていませんでした。またこの時代だとセイコーさんにお世話になっていたものですから、AFモジュールとかシャッターのチェックはするけども自社開発というのはあまり出来ていなかった時期だったと思います。
 
──なるほど。ということはこのIZM300のレンズシャッターについては内製だったんでしょうか。
 
小笠原:内製だったと思います。ただ途中で離れてしまったので最終的にどうなったかまでは存じていませんが。(外部から購入出来る)規格品ではないと思います。
 
──ちなみに、当時のコンパクトカメラの設計チームの規模というのはどのくらいだったのでしょうか?
 
小笠原:ピカソの頃でいうと、メカが6~7人に電気系が1人くらいという感じでした。当時は電気はそれほど重要視されていなかったんです。本当はそれじゃいけなかったんですけどね。あとは機構別にオートフォーカスとかフラッシュを専門に開発しているメンバーとかもいたので、トータルで見ると電気系が2人くらいというのが当時の標準だった気がします。もちろん今のカメラ開発とは全然違いますよ。
 
[次回に続く] 
 

2025年4月20日(日)弊社PCT会議室にて。
 
 

関連記事

PCT Members

PCT Membersは、Photo & Culture, Tokyoのウェブ会員制度です。
ご登録いただくと、最新の記事更新情報・ニュースをメールマガジンでお届け、また会員限定の読者プレゼントなども実施します。
今後はさらにサービスの拡充をはかり、より魅力的でお得な内容をご提供していく予定です。

特典1「Photo & Culture, Tokyo」最新の更新情報や、ニュースなどをお届けメールマガジンのお届け
特典2書籍、写真グッズなど会員限定の読者プレゼントを実施会員限定プレゼント
今後もさらに充実したサービスを拡充予定! PCT Membersに登録する