top コラム狭間に咲いた仇花(あだばな)―ブリッジカメラとその意義―第二回 ブリッジカメラの定義 その成立と終わりまで

狭間に咲いた仇花(あだばな)―ブリッジカメラとその意義―

第二回 ブリッジカメラの定義 その成立と終わりまで

2025/02/28
佐藤成夫

『ブリッジカメラ』……この呼び名が通じる人はもしかしたら、既にあまり多くはないのかもしれない。ある属性のカメラとカメラの間に存在する、その中間的属性を持ったカメラのことである。これらはあたかも二つの異なる属性の間に橋を架けるような成り立ちであったため、これを指して「ブリッジ」カメラと呼ばれるようになった。
 
前回はブリッジカメラを語る上での前提として、ブリッジカメラという存在があまりにも曖昧で定義しづらいものであるということを述べてきた。しかし本稿はこれからブリッジカメラについて解説していくわけなので、何が「それ」に当たるのかについて何処かで線を引かなくてはならない。というわけで今回は本稿で取り上げるブリッジカメラのルーツとその定義について触れてみたい。もっとも、これは筆者の私見であり唯一絶対の定義というわけではない。

 

さて、ここで改めて考えなくてはならないのはその期間──いわゆるブリッジカメラがいつ登場して、いつ終わったのか──という点である。前回は「1980年代末に一眼レフとコンパクトカメラの橋渡し的なカメラが生まれ、それと同時にブリッジカメラという呼び名も発生した。しかしこの呼び名は数年で消えてしまった」と述べた。

 

ブリッジカメラを知るためにはこの前後を含めて一眼レフカメラとコンパクトカメラの動きを知る必要があるだろう。ブリッジカメラは一眼レフとコンパクトカメラの間を繋げる存在であるからして、必然的にこの時期の両者の関係性を知る必要がある……というわけである。

 

まず、本稿に先駆けて連載したAF一眼レフ史において筆者は、70年代末から80年代当時のカメラを考えた際、完全自動露出(一眼レフの場合はプログラム露出)、AF、ワインダー内蔵、ストロボ内蔵、オートデートといった先進的要素はいずれも一眼レフではなくコンパクトカメラが先行してきたと述べた。これらすべてを一眼レフ側が身につけるのは、α-7000を始めとしたいわゆるAF一眼レフシステムの登場を待たなければならなかったのである。つまり、基本的には便利な機能はいずれもコンパクトカメラが先に取り入れていた。

 

しかし、これらとは反対にコンパクトカメラでは対応出来ず、当時は一眼レフでしか実現出来なかった要素も存在した。それがズームレンズの搭載だった。ちなみに80年代は一眼レフのキットレンズ(標準セットレンズ)がそれまでの標準レンズである50mm単焦点レンズから35-70mmなどのズームレンズに切り替わっていった年代としても知られている。
 
70年代末~80年代半ばは一眼レフとコンパクトカメラという一種の対立構造の中で、お互いの良い点を自陣営に取り込もうとする動きが活発になった時期でもあった。実際、コンパクトカメラに対して自動化で遅れを取っていた一眼レフはα-7000の発売に起因するAF一眼レフブームの中で一気に自動化を推し進めていった。もちろんこれらの進化は一眼レフらしい高機能化を目指したものではあったが、同時にコンパクトカメラ並の自動化も実現していた。これはα-7000以外の各社の一眼レフも同様である。

 

そして、AF一眼レフがそれらコンパクトカメラの長所を取り入れて進化した以上、コンパクトカメラが一眼レフ特有の長所──すなわち、ズームレンズの搭載──に挑むのは当然の流れであった。ただし、一般にズームレンズは単焦点レンズよりもレンズ枚数を必要とし、またズーミングで鏡筒の一部を個別に動かさなければならないため鏡筒のサイズも大きくなる。このため、コンパクトカメラにもズームレンズが付いていれば便利ということは誰もが感じていながらも、ズームレンズを採用したコンパクトカメラの登場は意外なほど遅かった。MF時代におけるコンパクトカメラでのズーム化例は富士フイルム フラッシュフジカズームデート(1978年・世界初)が僅かに存在する程度で、これがほとんど唯一と言って良い。このカメラはほとんど顧みられることはなく、一般にズームレンズ搭載コンパクトカメラとして認識されるのは、ペンタックス ズーム70(1986年)の方である。
 

 

1978年発売 富士フイルム フラッシュフジカズームデート レンズが目立つが倍率は1.4倍に過ぎない

 

とはいえ、35mm判ではなく110フィルム採用機に目を向けてみると実はそれよりも前にズームレンズは搭載されていた。富士フイルム ポケットフジカ350ズーム(1976年・世界初)が先陣を切ったが、これ以降も何機種か110のズーム機が生まれている。また、一眼レフ式ファインダーであり110としては高級機のカテゴリではあるが、ミノルタ ズーム110SLR(1976年)及び同マーク2(1979年)も存在したし、110ながら立派なレンズ交換式一眼レフのペンタックス オート110にも交換用ズームレンズは存在したので110においてはズーム機は珍しいものではなかったといえる。

 

ただ、ボリュームゾーンである35mm判フィルムにおいてはフラッシュフジカズームデートに続くカメラはしばらく現れなかったので、全体としてはマイナーな存在であった。

 

なお、これら70年代のズーム機はある問題を抱えていた。それは(一眼レフ式ファインダーではない場合)ファインダーをどうやってズームに連動させるかという問題と、ピント合わせの問題である。一眼レフ式であればこれらはいずれもファインダー内で同時に解決できるが、別体式のビューファインダー機では大問題であった。ピントを合わせるレンジファインダーと画角を決めるズームファインダーの両立は困難だからである。

 

先に挙げたフラッシュフジカズームデートでは、画角についてはファインダー内のブライトフレームを動かすことで対応しており、ピントについては目測式だった(ただピントリングにはクリックがあり、事実上のゾーンフォーカスとも言える。また幸か不幸かレンズ鏡筒があまりにも大きいせいで、ファインダーを覗いていると無限遠から3mくらいまではピントリングが見える。ある意味分かりやすいファインダーである)。
 

 望遠側かつ最短ではここまで伸びる。そしてピント合わせは目測に頼ることになる

 

 

110のポケットフジカ350ズームについては撮影レンズとファインダーが並列している110の長所(?)を生かしてファインダーはズームファインダーとなっていたが、こちらもピントは目測式であった。
 

 

ただ目測式のピント合わせは本当にそれでピントが合っているのかどうかも含めてファインダー内で確認出来ないため、一般ユーザーはもちろんある程度カメラに慣れた人でさえ苦手意識を持つ人は多い。結局各社ともアイコン式の半ゾーンフォーカスを採用するなどして対処することになった。110などは被写界深度も深いためこれで事足りたようだ。

 

なお、栄えある初の35mm判ズームコンパクトカメラであるフラッシュフジカズームデートが一般化しなかった理由は上記のピント合わせの煩雑さも大きいだろうが、やはりサイズの問題も大きいだろう。レンズのフィルター径は一眼レフ並の58mmだったり、同時期発売のフラッシュフジカAFデートが360gだったのに対して、フラッシュフジカズームデートは600gであり、ほとんど倍近い重さになっていたりとその差は歴然である。

 

結局この時期(1970年代末)というのはズームレンズ搭載よりもAF化の方にニーズがあったということなのか、フラッシュフジカズームデートは忘れ去られたカメラとなった。参考までにAF搭載コンパクトカメラの走りであるジャスコピンコニカことコニカ C35AFの発売は1977年であり、それを追ったフラッシュフジカAFデートがフラッシュフジカズームデートと同じ1978年に発売されている。ジャスピンコニカのヒットにより各社一斉にAF化の方に舵を切ってしまい、実際にそちらが支持されたのだ。

 

そんなわけで、現在富士フイルムが公開している富士フイルムのあゆみの中でも、フラッシュフジカ・デートやAFデートは取り上げられていながら、ズームデートについては全く触れられていない。おそらくは世界初のズームコンパクトカメラでありながら、生みの親にすら顧みられていないのである。ポケットフジカ350ズームは同記事でほんの少しではあるが言及されているので、ちょっとこの扱いの悪さは謎である。
(https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai4-06.html)

 

さて、話を戻すと70年代末~80年代初頭にはAF化が優先されズームレンズを搭載しなかった35mmコンパクトカメラであるが、やはり望遠撮影の要望は出てくるもので、80年代半ばにはアタッチメント式のテレコンバーターが登場し、それらが受け入れられると今度は最初からある程度の望遠撮影が可能な二焦点式カメラが出現しはじめた。その多くは内臓テレコンバーター式であったが、一部には独立した二組のレンズの光路をミラー等で切り替えるといった凝ったものも存在した。もちろんこの時期のコンパクトカメラなので焦点調節は既にAFが基本である。この二焦点カメラの時代が続いたあと、ようやくここで「AFコンパクトカメラ初のズーム機」として1986年のペンタックス ズーム70が登場するわけである。
 
 

1986年発売 ペンタックス ズーム70デート ズームコンパクトの祖に位置付けられるカメラ

 

 

この1986年というのはつまり、AF一眼レフを一般的なものにしたα-7000(1985年)の発売より後の出来事であり、α登場の時点では未だにAFズームコンパクトカメラは世に出ていなかったことになるのだ(ついでに言うと、年数だけ見ると翌年登場したようにも見えるがα-7000の発売は1985年2月・ズーム70の発売は1986年12月なので、ほぼ2年近い間隔が空いているということになる)。
 
とはいえ、先のフラッシュフジカズームデートにおいて問題だった「ファインダー内でピントが確認出来ない」「目測での撮影を強いられる」という問題は、AF化によって同時に解決された。つまり、進化の順番としてはズーム→AFではなく、AF→ズームの順でなければダメだったのである。これがフラッシュフジカズームデートにはまったくフォロワーが現れず、ズーム70にはこのあとたくさんのフォロワーが現れた要因の一つであろう。

 

ただ、このズーム70にしても35-70mmの2倍ズームというスペックであり、二焦点式カメラとの差別化という面では微妙なところだった。例えばこの前年の1985年にはコニカからMR-70望遠王というカメラが発売されていたが、このカメラはその名の通りテレ側70mmを実現していた(38mm F3.2と70mm F5.8の切換式)。つまり、ワイド端とテレ端だけ見てみれば、何もズームにしなくても二焦点式でも十分似たようなものは作れる……といった感じだったらしい。こうしたことから、ズームコンパクトカメラには当初懐疑的なメーカーも少なくなかったと言われている。

 

 

同時期のズームと二焦点モデルのサイズ感。右はコニカ ニュー望遠王MR-70LX(1987年)

 

 

……とはいえズームレンズ搭載という言葉の威光はそれなりにあったようで、ペンタックス ズーム70はよく売れたそうだし、実際他社も80年代末には一斉にズームコンパクトカメラの方を向き始めた。

 

このようなズームコンパクトカメラ黎明期の動きについては、ペンタックスがコンパクトカメラの市場においては最後発に近いメーカーであり、なんとかして他社との差別化要素を生み出さなければならない立場だったのが逆に幸いしたのかもしれない。なおズームコンパクトカメラ市場二番乗りだったのは、これも意外なことにナショナル(パナソニック C-900ZM)であった。このカメラはズームコンパクトカメラとしては珍しい手動ズームとなっており、某大手メーカーへも外装を変えた上でOEM供給され、そのメーカーが自社製ズームコンパクトカメラを出すまでの間密かに屋台骨を支え続けたようである。

 

さて、こうした中で各社が追随し、一通りズームコンパクトカメラが出揃ったところでよりズーム倍率の高い機種、より望遠が写せる機種が求められていくのは、ユーザー・メーカー共にごく自然な流れだったと言って良いだろう。しかし、コンパクトカメラにはサイズ面での制約もある。よりズーム比の高いレンズを搭載することはボディサイズの肥大化を招くため困難だった。

 

特に3倍以上のズーム比をこの時期既存コンパクトカメラのような箱形の筐体──つまり「普通の形」──に収めるのは著しく困難であったと言っていいだろう。ましてそれらに連動してファインダーやAF周りも望遠になればなるほどその技術的難易度は上がっていくのである。これらの要素を実現するためには、少なくとも筐体のサイズアップは必須であった。

 

──もうお分かりだろう、これらの問題をまとめて解決するのが「ブリッジカメラ」だったのだ。ブリッジカメラと現在カテゴライズされるカメラが特異な形状をしているのは、特異な形状にせざるを得ない理由があった。その理由の最たる物としてブリッジカメラには(当時としては高倍率の)ズームレンズが搭載されているのだ。そしてそれらと同時に、AFシステムやファインダーも(当時の一般コンパクトカメラ比で)奢った構成になっている。必然的に価格はコンパクトカメラの中でも高価になり、一眼レフに近付いていくことになる。かくしてサイズと価格と機能が一眼レフに近い中間的存在……「ブリッジカメラ」のできあがりというわけである。これがブリッジカメラの始まりであり、こうした出来事が起きたのが80年代末だったと言える。

 

また、上記の説明はコンパクトカメラ側からの説明であったが、一眼レフ側からのアプローチを考えると別の事情も透けて見える。ブリッジカメラを複数機種発売したメーカーはわりと限られており、代表的なのはサムライの京セラ、IZMシリーズとLシリーズのオリンパス、MIRAIシリーズのリコー、そしてジェネシスシリーズのチノンといったところである。これらのメーカーを並べてみると一つの共通項が浮かび上がってくる。それは「MF一眼レフではそれなりの地位に居ながらAF一眼レフの波に乗りきれなかったメーカー達」だったということである。

 

 

これらのカメラは機構の上では「AF一眼レフ」でもあった。レンズ交換式ではないというだけである

 

 

つまり、下世話な言い方をすれば──AF一眼レフではもはや勝てそうにないが、しかし「AF一眼レフが狙う市場」は獲りたい──という各社の願いが形になったのがブリッジカメラなのではないかと言うことも出来るだろう。実際、AF一眼レフを軌道に乗せた4メーカーからはミノルタ APEX105やキヤノン オートボーイJETといったブリッジ的なカメラが生まれているものの、これらはブリッジカメラ全体からすると後発機であり、こうしたメーカーでこのような方向性がそれ以上発展することはなかった。また、AF一眼レフとコンパクトカメラの両方を手がけていたニコンやペンタックスからはブリッジカメラに相当するカメラは生まれていない。
 

 

 

AF一眼レフのトップメーカー達もブリッジカメラと無縁だったわけではないが、力の入れ具合は……

 

 

そして、ブリッジカメラという言葉が消滅して以降もブリッジカメラに類する路線を続けたのは、今更AF一眼レフを作るわけにもいかなかったオリンパスだけであった。また、その「最後のブリッジカメラシリーズ」たるLシリーズは、事実上のレンズ固定式AF一眼レフであった(機構面で言えば一眼レフ式ファインダー及びフォーカルプレーンシャッターを備えたTTL式AF機と言える)。

 

というわけで、こうしたブリッジカメラの成立過程を追っていくと、筆者の考えるブリッジカメラの定義というのはまずズームレンズありきということになる。特に倍率については当時の箱形コンパクトカメラでは実現しづらかった2倍以上というのが目安になるだろう(この点においては前回引用したCAPA誌での当初の定義とは異なる)。

 

ただし、それ以外の機械的な要素は思ったよりもバリエーションに富んでいる。一眼レフ式ファインダーを採用したものもあるし、その中でもレンズシャッター式とフォーカルプレーンシャッターが混在したりしている。それもメーカーによっては同じ名前を持つシリーズの中でさえ混在しているのだから困ったものである。つまりズームレンズ以外に機構面から定義することも困難なわけで、これもまたブリッジカメラの曖昧さの実例の一つと言えるだろう。

 

これらの話を乱暴にまとめてしまえば、ブリッジカメラとは「2倍以上(多くは3倍程度)の当時としては高倍率のズームを搭載した結果コンパクトカメラのボディに収めきれず、そうであるならばと高機能・高価格化し、結果コンパクトカメラと一眼レフの間に収まったカメラ」であるということになる。このコンパクトカメラのボディに収めきれなかったということが、ブリッジカメラのキモである「特異な形状」にも繋がっているのである。

 

そしてこうした言い方を極限まで簡略化すると「ズーム付きの変なカメラ」ということになる。なんてこった、適当でいい加減だと思っていた世間での定義というのは案外イイ線行ってたってことじゃないか。

 

そして、ブリッジカメラの「終わり」がいつ訪れたのかだが、これも筆者としてはだいたい定められるだろうと思っている。それは特異な形状の手を借りず、箱形のカメラで3倍ズームが実現した時点である。これらは1989年の富士フイルム ズームカルディア2000(40-105mmの2.6倍ズーム)、1990年のペンタックス ズーム105スーパー(38-105mmの2.8倍ズーム)で段々実現されていき、1991年のキヤノン オートボーイズーム105やコニカ アイボーグ(これらは35-105mmの完全3倍ズーム)でトドメを刺されることになった。この頃になると3倍ズームであってもコンパクトカメラは「普通の形」で実現出来るようになった。そしてそれは、高倍率ズーム搭載最優先で特異な形状を備えたブリッジカメラというものの命脈が尽きた瞬間でもあったのではないかと思うのである。
 

 

 

 

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