『ブリッジカメラ』……この呼び名が通じる人はもしかしたら、既にあまり多くはないのかもしれない。ある属性のカメラとカメラの間に存在する、その中間的属性を持ったカメラのことである。これらはあたかも二つの異なる属性の間に橋を架けるような成り立ちであったため、これを指して「ブリッジ」カメラと呼ばれるようになった。
前回の記事では元祖(?)ブリッジカメラは京セラのサムライだったということを述べた。ただ、サムライは当時のカメラとしては異質なハーフサイズでもあり、大ヒットしたにも関わらずサムライに追従するハーフサイズのカメラが現れることもなかった。その結果としてサムライは様々なブリッジカメラが登場しても孤高のカメラであり続けたのである。
では普通の……いわゆる35mmフルサイズ(135判)におけるブリッジカメラの元祖はなんだったのだろうか。その答えは1988年発売のオリンパス IZM300である。実際にはそのズーム域は38-105mmと僅かに3倍には足りていないが、当時のオリンパスの広告では「35mmフルサイズをカバーしながら、ほぼ3倍域をカバーする38-105mmを搭載」としているので本稿でも3倍ズーム機として取り扱うものとする。ちなみに広告での本機のキャッチコピーは「100mmを越えたスーパーズーム」であった。そう、この時期のコンパクトカメラのワイド端は35mmないし38mm程度だし、二焦点式カメラや2倍ズームでは必然的にテレ端は60~90mm程度と、100mmを越えることはなかったのだ。だからこそこの三桁超え、100mm以上の焦点距離というのは誇らしげに宣伝されたのだろう。
オリンパス IZM300(1988年)
さて、一旦ブリッジカメラからは離れて当時のオリンパスが置かれた状況を俯瞰してみると、少なくとも当時盛り上がっていたAF一眼レフの市場においては劣勢気味だったようだ。α-7000を追って1986年にOM707が発売されたものの、結果から言えばこのOMAFシリーズはあまり受け入れられなかった。結局このシリーズはOM707一機種が出ただけで早々に終息となり、一眼レフについては引き続きMFのOMシリーズを作り続けるという方向でまとまったようだ。そして市場に出回ったOMAFレンズ活用の為にパワーフォーカスのMF機であるOM101(1988年)が作られたのだが、このOM101(2月発売)とIZM300(3月発売)はほぼ同時期のモデルであった。
ブリッジカメラの話から脱線してまで何が言いたかったのかというと、サムライ発売時点の京セラにおいてはAF一眼レフはまだまだこれからという時期だったが、オリンパスにおいてはそうではなく、少なくともIZM300が出た頃にはAF一眼レフという市場については一旦諦めるという方向がすでに明確になっていたのである。
つまり、この時期のオリンパスにしてみれば今後は自分達がカバー出来ないAF一眼レフの市場に対して、コンパクトカメラの方向から少しでもカバー出来る機種が欲しかったのではないか、ということでもある。この辺りが、似ているようでいて当時の京セラとは異なる点だったのではないかと筆者は考えている。一般的な用途はカバーしており、下手をすればAF一眼レフを食ってしまいかねない「初の35mmフルサイズ3倍ズーム搭載コンパクトカメラ」というスペックは、このようなところからも求められていたのだろう。
さて、IZM300の形式をまとめると「35mmフルサイズ・実像式ズームファインダー搭載・3倍ズーム・レンズシャッター・外部パッシブAF搭載カメラ」ということになる。ファインダー光路と撮影光路が別々になっていることやレンズシャッター機であること、そしてAFがTTLではないことなどからもわかる通り、このカメラはブリッジカメラという括りの中でも、どちらかと言えばコンパクトカメラに3倍ズームを付けたという性格のカメラである。
デザイン上の特徴となる右手側はレンズ以外の部品を詰め込んだ円柱状のグリップが設けられており、カメラを水平に構える為に横から握り込むような形状をしている。このグリップ内に実像式ズームファインダーと電池室とAFユニットとストロボを収めており、グリップと平行してズームレンズが配置されているのだ。これは一種のムービースタイルでありサムライとの類似を感じさせる部分だが、下から支える形状だったサムライと横から握り込むIZMという違いがある。このため、同じようなカメラに見えるが意外と構えた時の印象は異なっている。
このボディの真ん中に構えるズームレンズのスペックは38-105mm F4.5-6.0となっており、先に述べた通り”約”3倍ズームということになる。これだけの大きさがあってもワイド端でF4.5、テレ端ではF6.0となっており決して明るくはないが、一方で当時のAF一眼レフの35-105mmズームと比べればこれでも十分に小型軽量だった。明るさは犠牲になっているものの、その写りはコンパクトカメラよりも一段上を目指して作り込まれているとのことである。
軍艦上部には大型液晶があり、各種設定のためのボタンはその手前側にあるフタの奥に隠されている。グリップとレンズはボリュームたっぷりで既存カメラのデザインからすると異質なものだったが、一方でグリップとは反対側の左肩部分だけを切り出して眺めて見ると実はこの部分は意外に既存のコンパクトカメラ然としていたりもする。見慣れないのはこちらにズームボタンが付いていることくらいだろう。
機能満載の一眼レフとは異なり、この手のカメラは基本的には「電源」「シャッター」「ズームボタン」くらいしか触るところがないものだが、前項でも述べたとおり、手ぶれ防止の意図もあってかこのカメラはズームボタンが左手側に配置されている。ズームを活用して望遠で撮ろうとしたら必然的に両手で構えることになる、というわけだ。この左手側にはカメラ前面にグリップ代わりの突起、カメラ背面のフィルム窓上には同じくちょっとした突起が設けられている。この突起に左手を添えるように持つと、確かに左手の人さし指で電源・スポット測光ボタン・ズームボタンのすべてに手が届く。グリップスタイルのカメラとはいえ、実際はこうして両手で構えるようになる仕組みなのである。もっとも、多くのユーザーは片手撮りを行っていたようでもあるが。
ちなみにこのカメラのレイアウト、レンズユニットの右側にファインダーを並行配置して高さを抑えているという構造上、カメラを構えたときの右端にファインダーが来ることになる。こうした「右ファインダー」のカメラは結構珍しいのではないかと思う。とはいえ、筆者のように左目が効き目だと、カメラを構えると顔の前に右手が居座ることになって微妙に違和感がある。撮れないわけではないのだがなんとなく窮屈さを感じるというのが正直なところである。右ファインダーのカメラが少ないのは案外こんなところにも理由があるのかもしれない。
さて、発売当時の写真工業誌でのリポート及び同誌でのメーカー寄稿からは、このカメラのコンセプトが「コンパクトカメラに物足りなさを感じているユーザーばかりではなく、一眼レフの大きく重い点に不満を感じているユーザー層にもアピールできるまったく新しいカメラ」であるとしている。まさしく両者の中間を取り持とうというわけで、これまでに述べてきたようなブリッジカメラ像そのものである。
なお翌1989年にはこの時期に結んでいたリコーとの協業関係を生かし、一眼レフ式といえるIZM400を投入しておりオリンパスはこれらによってとりあえずAF一眼レフラインナップの穴を埋めたと言って良いだろう。ちなみにリコーからはMIRAI(→IZM400)が供給されたが、オリンパス側からはIZM300が供給されてMIRAI105となった。
リコー MIRAI105(1988年)
ちなみにIZM300はヨーロッパではAZ300として販売されており、当時のヨーロピアンコンパクトカメラオブザイヤーも受賞している(88-89年)。実際販売も好調だったようで、こうした面からもなかなかのヒットを飛ばしたカメラと言って良いだろう。
このようにIZM300について書いていくと、IZMというシリーズはブリッジカメラのシリーズ名のようにも思えるが実は必ずしもブリッジカメラだけというわけでもなかった。これはIZM300,IZM400に続いたIZM200が「多機能とはいえ(ブリッジカメラ的ではない)普通のズームコンパクトカメラ」として登場したことで明らかとなった。このIZM200の世界初の赤目軽減ストロボの搭載は画期的ではあったが、見た目はいわゆる普通のコンパクトカメラであり、ズーム比も38-80mmの約2倍ズームであった。また、IZM300については好評もあってか、この後マイナーチェンジモデルとしてIZM330(1990年)が発売されたが、IZMシリーズにおけるブリッジカメラはこのモデルが最後となった(IZMシリーズ全体としては1991年のIZM220が最後となる)。それは、このクラスに新たなモデルが投入されることになったからである。
オリンパス AZ-330(1990年・IZM330の輸出モデル)
IZM300系統の三機種 骨格は共用ながら並べて見ると細部のデザインは結構違う。
さて、MF時代には一眼レフ五大メーカーの一つとして数えられた名門メーカーでありながら一線で戦えるAF一眼レフを失い、なんとかブリッジカメラの投入で凌いだという状況だったがここから他の一眼レフメーカーとは異なる独自の動きを見せる。レンズ固定式・オールインワンAF一眼レフとしてのLシリーズの投入(L-1 1990年)である。
オリンパス L-1(1990年)
L-1はこれまでの表記に合わせるなら「35mm・一眼レフ式ファインダー搭載・4倍ズーム・フォーカルプレーンシャッター・TTL位相差AF搭載カメラ」ということになる。要するに、要素を見れば完全に「レンズ一体式AF一眼レフ」である。もちろん小型化のためにペンタプリズムを使わず背の低いファインダーを実現したり、S字型のフィルム給装によってあたかも中判一眼レフカメラのフィルムバックのような後ろに突き出たフィルム室を持つといった特徴はあったものの、機構面から考えるとこれは完全にAF一眼レフの方法論で作られたカメラである。実際にこのカメラの開発を担当したのは一眼レフを担当する部隊だったとのことだ。
L-1の外見はその名にある通りL字型のフォルムをしている。ブリッジカメラはいずれも「レンズが主役」のカメラであったが、実際にL-1はその中でも高倍率な4倍というズームを装備していたこともあって突き出たレンズの存在感が非常に強い。とはいえ、グリップの作りが通常の一眼レフ的なものなので構えたときの違和感はない。
L-1を触っていて強く感じるのは、他のブリッジカメラとは異なる思想、ひいては想定ユーザー層を持ったカメラだという点である。他のブリッジカメラは「一眼レフをコンパクトカメラに寄せた」にしろ「コンパクトカメラを一眼レフ並に多機能にした」にしろ、どちらであっても想定ユーザー層はコンパクトカメラ寄りというか、AF一眼レフの初級機くらいの使い勝手を目指していたフシがあった。故に一眼レフ式ファインダーを持つカメラであっても、ファインダー内の表示というのはせいぜいAF合焦ランプと露出警告ランプ、それにストロボのランプ程度だった。しかしL-1はこれらに加えて、シャッター速度や絞りの数値も表示している。これはAF一眼レフであっても中級相当の装備であり、要するにL-1が見据えていた仮想敵というのはAF一眼レフの中級機だったのではないかと思われる。
これらはレンズの仕様にも現れていて、L-1及び以降のLシリーズでは度々「EDガラス使用レンズ」であることがアピールされていた。いわゆる特殊低分散レンズというやつであり、当時は望遠の高級レンズに使用されているものだった。レンズを交換できない以上は、AF一眼レフ中級機に対してズーム域と写りの両面で互角に戦わなくてはならないわけで、そのためにもある程度レンズも奢る必要があった、ということなのだろう。
鏡筒の金文字EDのシールも誇らしげな35-135mm F4.5-5.6というレンズは、当時のAF一眼レフのキットレンズが35-70mmクラスから35-105mmクラスへ変わり始めていたことを考えれば同等もしくは上回るものと言えた。レンズ交換のニーズに対してはフロントコンバーターで応えていたものの、実質的にはオールインワンカメラである。テレ側が伸びているにも関わらずF値が5.6と比較的明るく作られているのは、おそらく「一眼レフ式なのでレンズの暗さがそのままファインダーに影響する」「同様にAF精度にも影響する」「仮想敵がAF一眼レフなので、そのサイズを上限としてある程度の小型化で済む(無理に小さくする必要がない)」といったあたりだろうか。
ただ、そうはいってもF4.5-5.6が決して明るくはないのも事実だ。想定ユーザー層はこれまでよりは高く、必然的にカメラの取扱にも詳しいことが想定されるとはいえ、一方でこのカメラは以前であればIZMが拾っていた高機能コンパクトカメラの領域もカバーするカメラである。そういうわけで、必然的にストロボも多用されることとなる。このため低く構えたトップカバーには縦二段のデュアルストロボが備えられており、望遠側ストロボは内蔵ストロボとしては破格のGN20となっている。更に外付けストロボも取り付けられるようにホットシューが備えられており、これは同時期のペンタックスの一眼レフのようにグリップ直上に備えられている。このことから同時期のAF一眼レフのようにグリップ直上には液晶パネルを置くことが出来ず、操作を司る液晶パネルはフィルムバック背面へと移動し、必然的にそのサイズも大きくなった。こうした背面大型液晶パネルをAF一眼レフが取り入れるのは更に先の00年前後であり、ある意味では10年先を行っていたとも言えるだろう。
しかし、こうしたフォルムを実現するために導入したS字型のフィルム給装は135判としてはかなりトリッキーな取り回しをしていたせいか、初代モデルであるL-1では装填が難しかった。このため以降のモデルでは装填時にフィルムを引っかけておくツメが大型化するなどして対策されている。ちなみにこのS字給装はより初心者向けとなるL10では廃止され、代わりに巻取軸をミラーボックス側にめり込ませる(シャッターの内側へ配置する)ことで横幅を短縮していた。このことからL-1〜3まではレンズの左側に膨らみが存在しなかったのに、二桁シリーズ以降は慎ましいながらも膨らみが生まれ、より他のカメラに近い出で立ちとなった。これに伴い裏蓋もフィルムバックのようなゴツいものから一般的なものに変わっている。
Lシリーズは大型でハイスペックを狙ったL1〜L3(1990-1992年)までの一桁シリーズと、それ以降の小型化を狙ったL10〜30(1994-1999年)の二桁シリーズが存在している。最終機となったL-5(2002年)は名前こそかつてのハイエンドシリーズ同様の一桁であるが、ボディは二桁シリーズとの共通性が強かった。またAPSにおいてもエッセンスを継承したセンチュリオンというカメラが生まれているし、コンパクトデジカメの時代にも(もはやLを名乗ることはなかったが)Lシリーズのフォルムは継承された。あるいは左手側がバッサリと落とされたE-1にかつてのLの面影を感じる人もいたことだろう。
さて、こうなってみるとL-1がオリンパスにおけるAF一眼レフ相当の領域をカバーしてその後に繋げたカメラなのは間違いない。このLシリーズは(イメージリーダーはOMであり続けたが、一方最新機能の導入という点では)オリンパスの事実上のフラッグシップとなり、アップデートも精力的に続けられていた。そういう意味では、既存ブリッジカメラよりもやや上のユーザー層を指向している上に、他のシリーズとは違って長く続いたということもあり、これを徒花と表現しているブリッジカメラの範疇に入れるかはちょっと迷う機種でもある。
だが、少なくともIZMからLへの流れというのはブリッジカメラの歴史上重要なトピックの一つであろう。詳しくは後段に譲るが、普通の形の3倍ズームコンパクトカメラが実現可能になった時点でほとんどのメーカーはそちらの方向へと舵を切ったため「デカいレンズとそのための変わった形状」というブリッジカメラ的な意匠を持つカメラはLシリーズだけになってしまったのだ。そして、Lシリーズだけが他社のブリッジカメラがあらかた滅びた後にもブリッジカメラの志を継ぐ(?)カメラとして生き残り、驚くべきことにAPSやデジタル時代までそのエッセンスを伝えることとなった。そういう意味では、最も成功したブリッジカメラのシリーズと呼んでもいいのかもしれない。
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