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top コラム狭間に咲いた仇花(あだばな)―ブリッジカメラとその意義―第10回 ブリッジカメラを作らなかったメーカーの動き

狭間に咲いた仇花(あだばな)―ブリッジカメラとその意義―

第10回 ブリッジカメラを作らなかったメーカーの動き

2025/11/01
佐藤成夫

『ブリッジカメラ』……この呼び名が通じる人はもしかしたら、既にあまり多くはないのかもしれない。ある属性のカメラとカメラの間に存在する、その中間的属性を持ったカメラのことである。これらはあたかも二つの異なる属性の間に橋を架けるような成り立ちであったため、これを指して「ブリッジ」カメラと呼ばれるようになった。

 

 

前回までに主要なメーカーのブリッジカメラは一通り紹介してきたわけだが、各メーカー間で力の入れ具合に多少の差こそあれ、様々なメーカーが参入していたことは先月までに改めて述べた通りである。しかし、この時期にブリッジカメラに参入しなかったメーカーももちろんあった。というわけで、今回はそうしたメーカーの動きについても触れていこう。

 

さて、この時期にブリッジカメラを作らなかったメーカーは何処かといえば、主要メーカーに限れば実は意外に少なくペンタックス・ニコン・そしてコニカといった辺りだった。つまり、メーカー数だけでいえばブリッジカメラに参入した方が多数派だったわけだ。結果として数年で終わってしまったとはいえ、ブリッジカメラというものが無視出来ないムーブメントだったというのはここからも分かる。

 

このうち、ペンタックスとニコンはどちらも80年代半ばからコンパクトカメラに参入し、どちらも事業としての主力はコンパクトカメラではなく一眼レフという共通点があった。このためこの時期はAF一眼レフにも注力しており、それらと食い合うことになるブリッジカメラを作らないという方針は傍目にも納得出来るものであった。

 

そして残るコニカだが、こちらはかつてコンパクトカメラの盟主として君臨したものの、それもジャスピンコニカ(コニカ C35AF 1979年)の辺りまでであって、これ以降はキヤノンのオートボーイに盟主の座が移ってしまったせいか、かつてのような存在感はなくなっていた。とはいえ、この時期も未だにコンパクトカメラの市場においては有力なプレーヤーであり続けていた。なお本稿での定義には一致しない為、ブリッジカメラとしては紹介していないが、ブリッジカメラという名称が使われ始めた当初にはコニカ Z-up80(1988年)をブリッジカメラの範疇に含めているものも存在した。

 

※例としては『オリンパス「インフィニティー・スーパーズーム300」(IZM300)や、アメリカ初登場のヤシカ「SAMURAI」、チノン「GENESIS」、キヤノン「シュアショット・マルチテレ」(オートボーイテレ6)、コニカ「Z-up80」、リコー「FF-7」(FF-9Dのデートなし)などの新世代型ブリッジカメラ(アメリカでは、一眼レフとコンパクトカメラの橋渡しになるという意味で、ブリッジカメラと呼ばれている)が、会場の話題の中心となった』とするCAPA1988年4月号の記事など

 

そんなわけで、本稿の定義ではブリッジカメラとしていないものの前述したZ-up80や後述するアイボーグなどもあるためこの三社の中ではコニカがもっともブリッジカメラに接近したメーカーだったと言ってもいいだろう。

 

さて、それでは各社の状況を俯瞰してみよう。まずペンタックスだが、ペンタックスはコンパクトカメラ市場において後発組だったことから、PC35AFオートロン(1984年)でいち早くDXコードへの対応を果たすなどして話題を呼んだものの、他社との差別化に苦慮していた。このことから生まれたのが、当時他社にあった二焦点カメラを飛び越えて一気にズーム化まで突き進んだペンタックス ズーム70(1985年)であった。このカメラのヒットによりペンタックスはコンパクトカメラ市場においてズームのパイオニア的存在として明確な立ち位置を確立することが出来たのである。

 

ここで面白いのは、ペンタックスが後発故に二焦点カメラを飛び越えてズームコンパクトを作り出したように、ペンタックスに出し抜かれた各社はペンタックスに追従しつつ、さらなるズーム倍率の拡大を目指してそれらとは異なる路線のブリッジカメラを作り出したわけで、こうして互いに切磋琢磨しながら新しい技術や製品が生まれていくというのがこうした製品開発の動きのダイナミズムであると言える。

 

閑話休題。ペンタックスはズームコンパクトのヒットを受けてこのジャンルのリーダー的存在となったせいか、さらなるズーム倍率の拡大という進化の過程においてもブリッジカメラ的な方向性に目を向けることはなかった。あくまでも通常のコンパクトカメラのスタイルを基本とし、その形を大きく崩すことなく新たなカメラを開発していったのである。

 

ペンタックス ZOOM 105(写真は105スーパーと同筐体でマイナーチェンジモデルの105R)

 

 

1990年発売のペンタックス ズーム105スーパーはそういった方針が形になった一台だといえる。初めて35mmフルサイズで100mmを超えたIZM300から遅れること二年、ズーム105はブリッジカメラ的形状でなくともテレ端105mmを実現してみせたのである。このカメラは38-105mm F4-7.8と約3倍ズームを実現していたが、その筐体は大柄ではあるもののブリッジカメラのような特異なものではなく、普通のコンパクトカメラの延長線上にあるものだった。

 

※ただし前回にもあったとおり、富士フイルムから1989年に40-105mmのズーム域を実現したズームカルディア2000が発売されており、このようなカメラはズーム105が初めてというわけではない。とはいえ、ズーム105スーパーは競合機であるズームカルディアよりもコンパクトであり(当時同クラスで世界最小最軽量を謳っていた)このことから市場にも好意的に評価されたようである。

 

やや話は進んでしまうが、この後始まるコンパクトカメラの望遠化(?)競争に熱心だったのもペンタックスであった。このことについてはいずれ本稿でも触れることになると思われるのでここでは詳述しないが、最終的にはテレ端の焦点距離が200mmというとんでもないカメラが生まれることになった。もちろんデジタルではなくフィルムコンパクトで、である。

 

そんなわけで、ペンタックスにおいてはブリッジカメラが流行する間も、この流行とは無縁であったといえる。ズームコンパクトのパイオニアであったが故に、最後までただひたすらにズームコンパクトを磨き続けて突っ走った……とでも言えばいいだろうか。このためか、本稿でこの後触れることになる単焦点AFコンパクトなどにもあまり積極性を見せていなかったりする。金属ボディの高級コンパクトなんかにも手を出していないので、まさにズームが生まれて以降は概ねズームコンパクト一筋といったところであった。

 

さて、もともと一眼レフ主体でありコンパクトカメラについてはAF時代からの後発組ということで、ポジション的にはペンタックスと似たようなところにいたのがニコンであるが、こちらについてはペンタックス ズーム70のような市場を塗り替えるほどのヒット作はこの時期未だに生まれていなかった。ズームコンパクトへの対応もやや後手に回ってしまったのか、同社初のズームコンパクトは他社から数年遅れて1988年のピカイチズーム(TW ZOOM )となっている(レンズスペックは35-80mm F3.5-6.5)。このカメラも多機能なカメラではあるのだが、やはりそのズーム域とフォルムを考えるとブリッジカメラではなく既存のズームコンパクトの流れにある一台と言えるだろう。

 

ニコン TW ZOOM ※残念ながら入手した個体はAFセンサーと液晶のカバーが取れている

 


そしてこの35-80mm F3.5-6.5というスペックもニコンらしい真面目さを感じるというか、なまじズーム比を伸ばして暗くしたところで実用に耐えるのか……という葛藤が見えるようである。というか実際にその通りだったようで、例えばニッコール千夜一夜物語のニコンミニ(AF600QD)の回では、ニコンミニ開発の背景として次のような事情が語られている

 


(前略)コンパクトカメラ市場の大きな動きとしてはズームレンズ化が挙げられる。(中略)単焦点カメラは普及機の位置づけとなり、コンパクトカメラ開発の主力はズームカメラ開発へと移行したのである。しかし、ズームカメラ開発も数年後には行き詰まりをみせる。その理由の1つはカメラ本体の大型化である。(中略)35-70mmのズームでWideがF4ならTeleはF8だが、35-105mmのズームではTeleはF12となってしまう。ISO400のネガカラーフィルムが普及していた時代とはいえ、当時社内ではF11を超えるF値は受け入れられないだろうとの考えがあった。そしてもう一つの課題がAFの精度である。(中略)焦点距離が長くなるほど、F値が小さくなるほどシビアになる。とりわけ焦点距離は二乗に比例して厳しくなるため、レンジファインダーカメラと同様に100mmを超える焦点距離のレンズを搭載するのが難しかったのだ。

ニッコール千夜一夜物語 第九十四夜 ニコンミニ AF600QD/Lite-Touch AF

https://nij.nikon.com/enjoy/life/historynikkor/0094/index.html

 


上記に引用した記事ではこのような事情からズームコンパクトではなく単焦点機であるニコンミニ(1993年)の開発へと進んでいく流れが語られているのだが、一方でニコンとて105mmクラスのズーム機を諦めたわけでもなく、たとえば1992年にはTW ズーム105という約三倍ズーム機を出している。とはいえこちらも先述のような葛藤のためか、レンズのスペックは37-105mm F3.7-9.9となっている。

 

そして上記引用にある通り「コンパクトカメラ向きのレンズ構成ではズーム比と明るさの二兎を追うことが出来ない」「テレ端を伸ばすほどにAF精度も必要になってしまう」というポイントは他社がコンパクトカメラの形状を諦め、ブリッジカメラという異形を選択した理由であった。結局のところどこのメーカーも解決したい課題というのは似かよっており、ただそれをどのように実現するのか、その方法が違っただけということでもあるのだ。

 

そしてもちろん、この時期のニコンの軸足はAF一眼レフの方にもあった。そうした社内競合を考えればブリッジ的なモデルに進まなかったというのも納得のいくところである。結局のところ、コンパクトカメラの側からなるべく(より高機能な一眼レフに)近付けていったカメラであるブリッジカメラは両者の中間を繋ぐポジションであるが故に食い合いを避けられないものだった。だからこそAF一眼レフで一定のポジションを確保した側のメーカーは一般にブリッジカメラに対して消極的だし、一方AF一眼レフ流行の波にうまく乗れなかった側のメーカーはブリッジカメラによって捲土重来を計ったのである。そういう意味で言えば、AF一眼レフで確かなポジションを築くに至った当時のニコンにとってブリッジカメラを作る意味はなかったのだろう。

 

最後に紹介するのはコニカである。先に紹介したとおり、コニカはある時期までは日本のコンパクトカメラ(そしてそれは取りも直さず、世界のコンパクトカメラでもある)のトレンドをリードする存在だったのだが、自らが切り拓いたAFコンパクトカメラの市場において全自動化にはやや遅れてしまい、かつてのようなポジションは失っていた。このためか、これらに続くトレンドであるズームコンパクトについてもやや遅れての投入であった。また一眼レフについてもAF時代を前に撤退しており、この時期はレンズ交換式のカメラをラインナップに持っていなかった。

 

コニカ Z-up80 

 

 

そんなコニカ初のズームコンパクトであるZ-up80は初代モデルが1988年に発売されたほか、マイナーチェンジや色違いなどバリエーションモデルがいくつか存在する。このカメラの特徴は名前にもある通りテレ端が80mmであることで、当時の他社が多く採用していた35-70mmのスペックと差別化を図っていた(レンズスペックは40-80mm F3.8-7.2)。またこの時期のコニカはズーム域で個性を出そうとしていたのか、この他に特筆すべきモデルにZ-up28W(1990年)というモデルがある。

 

このカメラは当時世界初の28mmからのズームコンパクト(28-56mm F3.5-6.6)であり、ワイドズームという通好みの焦点距離を持つ、ズームコンパクトのもう一つの潮流とも呼べるものだった。ただしフィルムコンパクトにおいてはこの焦点距離はいささかマニアックだったのか決して本流になることはなかった。先に述べたとおり、この後ズームコンパクトに起こった流行はテレ端の望遠化だったからである。

 

ただしこのワイド端28mmというスペックは二焦点カメラには相性が良かったようで、Z-up28Wと同時期にキヤノン オートボーイワールドトラベラー(1990年・28mm F4/48mm F6.5切替式)や富士フイルム カルディアトラベルミニ(1990年・28mm F3.5/45mm F5.5)といったモデルが生まれていて、むしろそちらの方が受け入れられた節すらある。

 

そしてこの時期のコニカのズームコンパクトといえば、カメラマニアにはお馴染みのアレ……アイボーグ(1991年)である。本稿の定義ではこのカメラはブリッジカメラには入らないということになっているのだが、その実態というか、端々を見ていると限りなくブリッジカメラに近いモノを感じる。とにかく既存のコンパクトカメラよりは上かつ、下手すれば一眼レフを超えてしまおうという気概を感じる一台なのである。

 

コニカ アイボーグ

 

 

レンズは35-105mm F3.8-8.5と完全三倍ズームとなっており、また大柄で一種異様なデザインではあるものの、ブリッジカメラの特徴である特異な形状と紙一重のところでコンパクトカメラ側に踏みとどまっている(※筆者の感想です。正直なところ異論は認めます……)。とはいえそのボディカラーは紫のラメ入り塗装だし、センターのエンブレムはLEDで光る(何故?)し、多機能ぶりは当時の一眼レフやブリッジカメラとも十分に渡り合えるものである。またこのカメラの機能面での特徴としては、測距点をAFユニットごとメカニカルに左右に振ることで多点測距相当の機能を実現している。あげくファインダーには撮影距離が表示されるという至れり尽くせりの機能まである。実際、このカメラは一眼レフ亡き後のコニカにおける事実上の最上位機種でもあった。もしかしたらそのつもりはなかったかもしれないけれども。

 

……とはいえ、こうしたズームコンパクトの進化に行き詰まりを感じていたのはコニカも同じであった。そして後から歴史を俯瞰したとき、この時期のコニカを代表するカメラはズームコンパクトではなく別の路線のカメラであったといえる。

 

そう、ズーム機に押されて普及機の烙印を押されてしまった単焦点機を再度表舞台へと引き上げた大ヒット作であるビッグミニ(1988年)が生まれたのもこの時代だったのである。ビッグミニについては今更ここで詳細に語る必要もないと思うが、単なる廉価版としての単焦点モデルではなく、小型軽量でよく写る「ちょうどいいコンパクト」として一世を風靡した。

 

実際、同時期のズームコンパクトは上記の通りズーム倍率を上げれば大型化する上にレンズが暗くなるというジレンマに陥っており、また凝った機構により本体価格も上昇していた。こうした状況に対してNOを突き付けた……アンチズームコンパクト、そしてアンチブリッジカメラでもあるのがビッグミニであると言える。こうした流れは各社に波及し、XA以来のカプセルフォルムをAFで実現したオリンパスのミュー(1991年)や、先に触れたニコンミニ(1993年)、それから富士フイルムのティアラ(1994年)などもまたビッグミニが作った「ちょうどいいコンパクト」の潮流にあるモデルであると言えるだろう。

 

ちなみにもしコンパクトカメラ史(?)を語るとしたら、同時期にコンタックス T2(1990年)から始まる高級コンパクトの流れも始まっているのでこちらも見逃せないのだが、流石にそこまで行くと脱線が過ぎるのでそういうこともあったと一言触れるに留める。

 

そんなわけでブリッジカメラを作らなかった側のメーカーを紹介してきたが、いずれにしても、ブリッジカメラでなくとも三倍ズームが実現出来るようになったことでブリッジカメラという概念は段々と一般的な形のズームコンパクトに吸収されていくことになったという結論はこれまでの各社の説明と同じである。

 

ブリッジカメラのサイズや形状というのは少なくとも当初はレンズの倍率と明るさ、それにより高度なAFシステムを詰め込む為の必然であったが、小型化等々の要望からかブリッジカメラの中でさえレンズは段々と暗くなっていった。そして明るさを諦めれば三倍ズームが一般的な形状で実現することが出来るというのも事実である。転じて三倍ズームが一般的な形状で実現出来るようになったのであれば、ブリッジカメラのように特異な形状をしている理由はなくなってしまう。むしろサイズや重量、使い勝手の点でマイナス要素にもなりかねない。

 

では何故このような動きが生まれたのか? それこそがブリッジカメラを総括する上で重要な論点だと思われるが、それはまた別の回で説明することになるだろう。

 

最後に蛇足な上に身も蓋もない話をすると、本稿で挙げた反ブリッジカメラ(?)かつ反ズームコンパクト的単焦点AFコンパクトカメラであるビッグミニ、ミュー、ニコンミニ、それからティアラといったシリーズはいずれもその後ズームモデルが生まれている。反ズームカメラ(?)として生まれたにも関わらず、である。

 

結局のところ大半の顧客のニーズはズームコンパクトにあった……ということなのだろう。

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