『ブリッジカメラ』……この呼び名が通じる人はもしかしたら、既にあまり多くはないのかもしれない。ある属性のカメラとカメラの間に存在する、その中間的属性を持ったカメラのことである。これらはあたかも二つの異なる属性の間に橋を架けるような成り立ちであったため、これを指して「ブリッジ」カメラと呼ばれるようになった。
これまでの各回ではブリッジカメラというカテゴリに比較的熱心に取り組み、複数台投入したメーカーにスポットライトを当ててそれぞれ状況を説明してきた。だが、ブリッジカメラがそれなりの盛り上がりを見せた当時はこれら以外のメーカーもこのカテゴリに参入しており、数は少ないながらもそれぞれに特徴あるカメラを発売している。今回はそうしたメーカーの動きについて触れていこう。
具体的にブリッジカメラと呼べる機種を作ったのはオートボーイJET(のちにオートボーイの銘が取れた後継モデルのJET135も発売)のキヤノン、APEX105のミノルタ、そしてズームカルディア3000を投入した富士フイルムである。ただし、これらのメーカーで後継モデルが出たのはキヤノンのみで、ミノルタと富士フイルムはいずれも一機種のみでこの路線には早々に見切りを付けている。この辺の動きもまた興味深いところである。
また、これらのカメラが属している「オートボーイ」「APEX」「カルディア」というのはいずれもブリッジカメラ以外の「普通の形のコンパクトカメラ」も並行してラインアップしていたシリーズであり、そういう意味では各社の本流的なコンパクトカメラのシリーズ内で、突然変異的に生まれたカメラであったという印象も受けてしまう。
……といっても、先に挙げた以外のメーカーがブリッジ的なカメラを投入するのは、既にブリッジカメラというジャンルが確立された90年代に入ってからのことだった。特にキヤノンやミノルタといったメーカーには既に自社のラインナップにAF一眼レフがあるため、AF一眼レフと食い合うことになるこれらのカメラを急いで作る必要も無かったのだろう。
さて、これらのメーカーの中で一番乗りだったのは、意外なことにキヤノンであった。1990年6月にオートボーイJETを発売し、このカテゴリに参戦している。ちなみにキヤノン初のズームコンパクトカメラは1988年4月発売のオートボーイズームで、これは定石通りの35-70mm二倍ズームだが今となっては珍しい手動ズームのコンパクトカメラであった。
そしてキヤノンのズーム付きとして二つ目のモデルに当たるのがオートボーイズームスーパー(1989年9月)で、これは「スーパー」の名の通り、一般的なコンパクトカメラのスタイルを元にしながらやや大柄なボディをまとった最高級機というポジションであった。キヤノンカメラミュージアムでの紹介文はFD交換レンズに匹敵する光学性能を求めて開発された39-85mm F3.6-7.3レンズを搭載したとしており、実際にボディ骨格はダイキャスト、レンズ鏡筒にはアルミを使うなど、かなり奢った構成のカメラとなっていた。見た目の上では普通のカメラ寄りではあったが、その機能や性能、そしてサイズと価格(54,800円)から考えるとブリッジの領域に膝下くらいまでは突っ込んでるカメラという見方も出来るだろう。本項においてはこのカメラはブリッジカメラではないと判断しているが、ズーム倍率は2倍を超えており判定のボーダーライン上にいるとも言える。
キヤノン オートボーイJET(1990年)
そして、オートボーイJETはこれらのカメラに続くキヤノン三機種目のズームコンパクト機として発売されたモデルである。その特徴はなんと言ってもレンズそのものをカメラにしたかのような円筒形のフォルムであろう。既存ブリッジカメラのデザインが概ね「レンズ+グリップ等の機能を詰め込んだブロック」という構成だったのに対し、このオートボーイJETではほとんど円筒そのものになっていた。この円筒形フォルムを実現するために、フィルムはS字給装が採用されているが同じくS字給装で有名なオリンパスL-1よりもこちらの方が発売日は先行しており、またこちらに関してはパトローネもドロップイン式であった。
通常フィルムカメラの横幅を決めているのは「パトローネ室」「フィルム室(露光部分)」「巻取軸」の三要素である。フィルムカメラには不可欠なこの部分が横に三つ並ぶことでカメラの幅は概ね決まってしまう。そしてこれらをの配置をオフセットさせることで横幅を縮めたのがチノンスーパージェネシスであり、オリンパスL-1であり、キヤノンオートボーイJETだったというわけである。奇しくもこの三機種は同じ1990年の5~8月の間に発売されているが、ある意味で皆考えることは同じというわけだ。もちろん、オフセット配置ではあるもののその置き方は異なり、またフィルムの巻き方もスーパージェネシスは順巻き、L-1とオートボーイJETはS字巻きである。
フィルムがS字状に巻かれることでカメラ自体の横幅を縮めている
なお、オートボーイJETでは筒型フォルムでドロップイン式のフィルム給装を実現したが故に電池はパトローネ室の後ろに置かざるを得ず、裏蓋を開けたところに電池が鎮座している。しかしそれでは撮影中に電池が切れた時、裏蓋を開けたら感光してしまうし、かといって完全に電池が切れたら途中巻き戻しすらも出来なくなる……ということで、裏蓋に更に電池部分をくり抜いたフタを設けてあり、裏蓋を開けずとも電池だけ取り外せるようになっている。この泥縄的な解決方法はなんともキヤノンらしくないというか、もうちょっとどうにかなんなかったのだろうかとこれを見た全員がツッコむ部分であろう。
また、この特徴的なデザインの源流はルイジ・コラーニがキヤノンに向けて作成したデザインスタディ(いくつか案があり、そのうち一つはT90の原案となり、さらにEOSに引き継がれた)の一つから発展したものであるとされている。
さて、そんなわけでこのカメラは機能的には「35mm・実像式ズームファインダー・3倍ズーム・レンズシャッター・外部アクティブAF搭載カメラ」である。各部分に飛び道具的な要素は多々あるものの、こうして要素を列挙してみると、実のところ機構面からは意外に手堅い印象を受けるカメラでもある。とはいえ、各部分の飛び道具ぶりもなかなかのものであり、ネタ度という意味ではブリッジカメラ随一のものかもしれない。
まずレンズは、この手のカメラとしては珍しいF2.8スタートの大口径レンズとなっている。そのスペックは35-105mm F2.8-6.6だが、ワイド端のF2.8は3倍ズームとしてはほぼ唯一と言って良いスペックである。実際後継のJET135ではテレ端が伸びる代わりにワイド端の明るさはF3.2に落ちてしまったが、実はこれでもかなり明るい方なのである。
このカメラの電源はレンズ先端のヒンジ式レンズキャップを開けることでONになるが、このレンズキャップ側にはフラッシュが仕込まれていて、さらにズーミングに連動してフレネルレンズが可動することでズーミングに応じた配光を実現している。また本機には専用クローズアップレンズもあり、これはレンズ側にはクローズアップレンズ、フラッシュ側にはディフューザーを配置することでマクロ域での発光量をコントロールしている。
ファインダーは実像式ズームファインダーだが、ボディ天面にスライド式の小窓が設けてあり、このフタを開けるとウエストレベルファインダーとしても使用出来るようになっている。これは一時期の京セラが熱心だった(Tスコープシリーズなどに搭載していた)機構だが、他にはあまり例がなく、高倍率ズームとの組み合わせは本機くらいのものである。
このようにマニュアルを指向した機能はほとんどないが、それを補って余りある飛び道具が満載というわけで、コンパクトカメラに飽き足らないユーザー向きではあるが一方でカメラや撮影の難しい知識は要求されないモデルと言えるだろう。この内容で定価は64,500円と、他社同様コンパクトカメラよりは高いがブリッジカメラとしては標準的な価格帯であった。
1992年3月にはレンズをややテレ側にシフトした(38-135mm F3.2-8)後継モデルとして、オートボーイの冠が取れたJET135が誕生している。ただ、この頃になるとブリッジカメラの旬も過ぎたということなのか、中古市場では初代JETほど見掛けることはない。結局キヤノンのブリッジカメラ路線はこのJET135で打ち止めとなった。
というのも、オートボーイJET発売後の1990年10月にはAF一眼レフの価格破壊機となったEOS1000QDがレンズ(EF35-80/F4-5.6)付き69,000円で発売されている。JET及びJET135は価格帯的にこの自社内の強力なライバルとも戦うハメになってしまった。そしてこの時期のキヤノンのリソースがどちらに多く割かれていたかといえば、間違いなく一眼レフであるEOSシリーズであろう。90年代初頭は、価格面でAF一眼レフが、機能面でコンパクトカメラが、それぞれのやり方で徐々にブリッジカメラの領域を侵食していった時代でもあったのだ。
そしてキヤノンと同様、バリバリにAF一眼レフカメラを作っていながらもこのジャンルに参入したのがミノルタである。1990年9月に発売されたAPEX105は、3倍ズームを比較的シンプルなオペラグラス的箱形デザインに収めて登場した。これまでに取り上げてきたカメラが基本的にどれも非常に凝った造形だったのを考えるとだいぶクリーンなデザインだが、検討初期のデザインスケッチを見る限りでは曲面を多用し、レンズの存在感を出したデザインなどを検討しながらも、最終的にはこのような比較的シンプルな造形に落ち着いたようである。
ミノルタ APEX105(1990年) 写真の白の他に黒モデルもあった
なお、先の通りAPEXというシリーズはブリッジカメラ専用のシリーズ名というわけではなく、同時期のミノルタ製コンパクトカメラのブランドネームである。他にAPEX70や90といった兄弟機があり、これらの機種は2倍のショートズームを搭載しており、いたって普通のコンパクトカメラの形をしていた。ちなみにAPEXという名前は頂点を意味し、どちらかと言えば高機能コンパクトカメラのシリーズと位置付けられていたようだ。これらの機種に共通した仕様としては当時のαシリーズでもお馴染みだったアイセンサーを搭載し、普及シリーズの70/90ではアイスタートAFを、上位モデルの105ではそれに加えてオートズームモードであるアドバンスプログラムズームを実装していた。
そう、α-7xiでも搭載され不評を買ったあの機能である。というか、α-7xiの登場はこのカメラよりも後(1991年)なので、むしろこのカメラこそがミノルタにおけるオートズーム機の元祖であった。見た目の上では同世代のブリッジカメラ達に比べて印象が薄く感じるが、中身はといえばミノルタの考える最先端の自動化路線が結実したカメラでもあったわけだ。
そしてこのカメラ、このような形をしているのに(このようなカメラでは定石の)外部AF式ではない。例えば本機と同様に「本体中央にレンズを持ち、横長で箱形に近い形状をしている」形状を持つオリンパスIZM300やリコーMIRAI Zoom3は外部パッシブAF搭載のカメラである。しかしAPEX105はそうではない。このカメラのAFは、当時のα-5700iと同じTTL位相差センサーなのである。改めてこのカメラの基本スペックを列挙すると「35mm・実像式ズームファインダー・3倍ズーム・レンズシャッター・TTL位相差式AF」ということになる。価格は64,000円である。
ここでカメラの構造に詳しい人ならばすぐに頭の中がハテナマークでいっぱいになるだろう。というのも、TTL位相差AFというのは、文字通りスルー・ザ・レンズ……つまりレンズ光学系を通した光をセンシングすることでピントを検出している。これはAF一眼レフでお馴染みの方式だが、AF一眼レフではこの「レンズ光学系を通した光」をAFセンサーに導くためにレフレックスミラーの一部から分光している。これはシャッターの前にミラーがあり、そこから分光することが容易い一眼レフ故の仕組みである。実際に他にもブリッジカメラでTTL位相差AFを採用したカメラは存在したが、いずれも「事実上のレンズ固定式一眼レフ」であり、レフレックスミラーから分光することでAFセンサーに光を導いていた。本書がこれまでに挙げてきた中だと京セラサムライ、リコーMIRAI、オリンパスL-1、チノンスーパージェネシスが該当する。
しかし、本機はそれらとは異なり、レンズシャッター式であり、実像式ズームファインダー搭載である。つまり、普通であればファインダーとAFセンサーへの光線振り分けのために使えるレフレックスミラーがないのだ。ではどうやってTTLでのAFを実現したのか……答えは簡単、ファインダーとは無関係に、AFセンサーに光を導くためのレフレックスミラーをフィルムの直前に置いたのである。
んなアホなと思うかもしれないが、本機はTTL位相差AF実現のためにフィルムの直前に可動式のAFミラーを置いている。これを使ってAFセンサーに光を導くというわけである。このとき、レンズシャッターはAFセンサーよりも被写体側にあるから全開にしなくてはならないが、このままではフィルムが感光してしまうためレンズシャッターとは別にフィルム側には遮光幕が備えられている(見方によってはシャッターが二箇所あるとも言える)。
機構自体はレンズシャッター機に分類されるが遮光幕がある為後玉は見えない
また、フィルムの直前にある以上、露光時には当然AFミラーは待避する。言わばこのミラーはライカCLやM5の測光シャモジのようなものだと思えばいい。
動作の流れとしては、AF測距時はレンズシャッター開放・遮光幕は閉じてAFミラーがフィルム直前に展開されている。シャッターが押されると測距完了後にレンズシャッターを閉じ、その間にAFミラーを待避させ、遮光幕も開放される。邪魔者がいなくなったところでレンズシャッターによる露光が行われ、また元に戻るという動きである。レンズシャッター全閉後に様々な動作が行われ、その後にレンズシャッターで露光がされるところはいわゆるレンズシャッター一眼レフの動作にも似ている。
どうしてこのようなことをしてまでTTL位相差AFに拘ったのか、一応メーカーとしては当時のコンパクトカメラで主流だったアクティブAFは遠距離やガラスに弱いことや、位相差式であれば動体に対応可能などといった理由も挙げているが、おそらくは一眼レフにおける位相差AFのパイオニアとしての自負もあったのではないかと思われる。なおレンズは35-105mm F4.0-6.7と、いわゆる完全3倍ズームであるが、コンパクトな筐体が影響してかテレ端はやや暗めである。
とはいえ、こうした凝った機構面とは裏腹に、本機は基本的にはフルオート……それも「ズームすらオート」の全自動カメラという位置付けのカメラであった。特にメイン機能として据えられた自動ズームは、一応いろいろな難しい理論の元に実装されたものではあったのだが、あまり支持を得られなかったというのはこれ以降の歴史が証明している。というわけでこのカメラもまた、これ以上の発展を遂げることはなかった。
さて「その他のメーカーのブリッジカメラ」最後の一つは富士フイルムのズームカルディア3000である。1991年3月登場のモデルであり、ブリッジカメラとしては末期と言える時期であった。その後も継続したオリンパスLシリーズを除けば、この機種より後に登場するのはリコーMIRAI Zoom3とキヤノンJET135のみである。
構成としては「35mm・実像式ズームファインダー・3倍ズーム・レンズシャッター・外部アクティブAF搭載カメラ」であり、比較的(?)スタンダードな構成のカメラである。オペラグラス的なフォルムを基本としながらも、レンズの両脇はグッと絞られており、中央部のレンズを強調するようなデザインになっている。そのレンズは38-115mm F4.5-8.9と、珍しいことに38mmからの完全3倍ズームである(ブリッジの完全3倍ズーム機の場合35-105mmの方が多い)。この時代のコンパクトカメラは広角側35mmないし38mmスタートのものが多く、しかし販売的にはテレ側が長い方がウケが良かったようなのでこうしたスペックとなったのかもしれない。
富士フイルム ズームカルディア3000(1991年)
余談だが、先の項でオリンパスIZM300が「初めて100mmを越えるズームを搭載した」ことを広告でアピールしたと書いたが、実際しばらくの間は普通の箱形のコンパクトカメラでは80~90mmが限界であり、100mmを越えるズームを搭載するものは皆無であった。そしてこれを打ち破ったのは1989年6月発売の富士フイルムズームカルディア2000である。しかしそのレンズのズーム域は40-105mmと、同時代のコンパクトカメラと比べてもワイド側が厳しいものであった。結局この後ペンタックスから38-105mmのズーム域を持つズーム105スーパーが発売(1990年3月)され、こちらの方が実質的には「普通の形で高倍率」の元祖的な扱いを受けている(同機はヨーロピアンコンパクトカメラオブザイヤーを受賞)。この2mmの差、正直なところ今となっては何がそんなに明暗を分けたのかという感じもするが、たかが2mm、されど2mmなのである(あるいは「2.6倍ズーム」と「『約』3倍ズーム」の宣伝上の聞こえ方の違いもあったのかもしれないが)。
さて、改めてレンズに着目してみると、テレ端が同系統(レンズシャッターベース)の他のカメラよりも長いせいか、レンズは正直暗めである。テレ端はF8.9と、一眼レフで言えばミラーレンズ並みの暗さなのだ。いくら比較的手ブレに強いと言われるレンズシャッター機とはいえ、レンズが暗いということはシャッタースピードの問題が発生する。何らかの方法でシャッタースピードが稼げないと写りは期待できないということになる。そこでこのカメラではこれまでにないアプローチを取った。標準で同梱される着脱式大型フラッシュの搭載である。
実際、これまでに取り上げた中でも京セラサムライZやチノンジェネシスでは「フラッシュON=電源ON」をスイッチで連動させることで積極的にフラッシュを発光させる思想だったし、オリンパスL-1では通常フラッシュに加えてテレ側専用のツインフラッシュを装備する例もあった。失敗写真防止の為にこの時期に取れる手段の中ではフラッシュが一番手っ取り早かったのである。一眼レフ的なモデル(MIRAIやLシリーズ)には専用シューが存在し、別売りの専用フラッシュが装着可能になっていた。必要であれば別売りの大光量フラッシュを使ってくれというのがメーカーの本音でもあったのだろう。とはいえ、実際にそれらの外付けフラッシュを皆が買ったかと言えば、おそらく答えはノーであろう。別売りのフラッシュまで購入した層というのは、やはり全体からすれば少なかったのではないかと思われる。
このためか、ズームカルディア3000はそれでは不十分とばかりに大光量外付けフラッシュを標準で添付するという手段に打って出た。ちなみに、先に挙げた「初めて普通の形で100mmを越えた」ズームカルディア2000も同様に大型の外付けフラッシュを搭載していた。このズームカルディア2000はホットシュー等のシンクロ手段を持たないコンパクトカメラであるが故に、そのシンクロ方法も一工夫凝らされており、具体的には本体側フラッシュ光のみを拾う位置にスレーブセンサーを付けて、本体側の発光に連動してフラッシュが発光するようになっていた。単純なスレーブとしていないのは、他のカメラのフラッシュに釣られて光ることがないようにとの配慮であろう。使用時はこれを本体に被せるようにして装着するようになっている。
続くズームカルディア3000も外付けフラッシュ搭載という意味では同じだが、こちらは引き起こした時に一眼レフ用のクリップオンを思わせる姿に変わっていて、さらに巨大になっていた。使用しない時は折りたためるようになっていたとはいえその姿は威圧感たっぷりである。ただ、やはり可搬性は犠牲になってしまうのでこれ以降内蔵フラッシュの他に巨大な外付けフラッシュが付属する機種というのはほとんど生まれていない。そういう意味ではフラッシュを付けることが理論としては正しいとしても、ユーザーはついてこなかったと言えるのかもしれない。
フラッシュは折りたたむことも出来るが、それでもなお存在感のあるサイズである
なお、ズームカルディア3000はそのフォルムからもわかる通り、ムービースタイルのカメラであり、操作部材もほぼ全て右手側に集められている。こういう横長箱形スタイルのカメラは右手だけで撮れるようにしておきつつも、やはり安全(?)のためには密かに両手持ちを推奨しているフシがあり、通常それはボディ側の造形にも現れている。例えば似たようなレンズシャッター横長箱形スタイルのカメラで言うと、オリンパスIZM300/リコーMIRAI105には左手側にズームボタンがあり滑り止めゴムと指かけが存在していた。ミノルタAPEX105も同様に左手側ズームボタンがあり、ボディ底面には親指置き場とも言える窪みが設けられている。リコーMIRAI Zoom3も左手側にゴム張りを設けておりホールディングの便が図られている。しかし、ズームカルディア3000においてはそういった配慮はあまり見られず、デザインの上からも他機種以上に片手撮りを想定したカメラのように感じられる。もしかしたら、だからこそ大型フラッシュを付けて手ブレ写真を防止するという方法に拘ったのかもしれない。
このように、様々なメーカーがブリッジカメラに手を出す一方で、ブリッジカメラには手を出さずに「普通の形」である箱形のスタイルを守り続けたメーカーたちもいた。そして全体の流れは段々と箱形へと傾いていったのである。
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