20代前半から30代前半にかけて、10年近く六本木の近くに住んでいた。正確には赤坂と麻布十番。どちらも通りを一本渡ると住所は六本木。どちらから行ってもあいだに六本木がある位置関係で、六本木が坂の頂上となる。だから気持ちとしては峠を越えて向こう側に行くという感覚があった。とにかく坂が多い。
時々、このあたりに住んでいると言うと、きまって「え、住むところなんてあるの?」と言われた。東京生まれの人にも。
「意外とあるんですよ」いつも同じ言葉を返した。
六本木には青山ブックセンター六本木店があって(残念ながら2018年に閉店)、赤坂に住んでいるときも、麻布十番に住んでいるときも本当に足繁くかよった。どちらからも歩いて10分ほどの距離だったので、週に何回も毎日のように。特に赤坂に住んでいるときは、部屋にキッチンがなく、ほぼすべて外食で済ませていたので、飲食店の多い六本木まで行くことが多かった。
青山ブックセンターには中二階のような屋根裏部屋を連想させる細い売り場が階段を登った先にあって、写真集の売り場だった(ほかにもアート関係の書籍が並んでいた)。最初にこの存在を知ったときは、かなり胸が高鳴った。夢のような場所だと感じた。ここにどれほどの時間、私はいただろうか。
競うつもりなどないが、ある時期そこにいる滞在時間は誰よりも長かったであろう自信がある(何の自慢にも徳にもなりません)。記憶では深夜12時すぎまで営業していた気がする。行くのはたいてい深夜で、時間だけは捨てるほどあった当時の自分はまさに入り浸っていた。
多くの写真集を見た。買うことももちろんあったが、立ち読みもした。できるだけ、記憶に刻むようにページをめくった。ここでの見る体験がその後の自分を形成したといっても大袈裟ではない。洋書はどこよりも早く店頭に並んでいたはずだ。なにより書店に熱気があった。多くの個性的な人が真剣に本を選んでいた。書店というメディアに輝きがあった。
当然、夜の街にも繰り出した。ほとんど興味がなかったのだが、クラブが好きな友人が数人いて、誘われるままにクラブに行った。いつもその友人たちと一緒だった。いまもあるのだろうか、雑居ビルに入っている「ガスパニック」というクラブによく行った。正直、普通の居酒屋でお酒を飲む方が好きだったけど、友人が踊る姿を、ライムをねじ込んだコロナビールを瓶から直接飲みながら眺めていると、妙な浮遊感があった。日常からの逃避だったのだろう。
クラブでは入り口で荷物検査があって、あるとき私のバックから金槌がでてきて、店員がひどく驚いたことがある。私はそれを入れていることを忘れていた。昼間、グループ展示の設営を行なった帰りで、金槌は額の釘を打つために持参したものだった。
この先の人生の時間のなかでクラブへ行くことはあるのだろうか。きっとないような気がする。つくづく若かったと思う。
友人たちとお店を出て、酔っ払ったまま駅の方向ではなく、逆の方向へ細い坂道を下ったことがある。迷路の先へ紛れ込むような感覚があった。顔面に不意に生ぬるい風がなでるように当たった。それについて何かを喋った。でも何についてだったのかはおぼえていない。季節は夏の始まりの頃だった。
少し歩くと思いかげず視界が開けた。あれ?という感じだった。遠くにのビルの点滅が見えた。足元には闇が広がっていた。目が慣れてくると無数の墓標であることがわかった。
あのときの記憶を頼りに私は、同じ坂をコロナ禍でほとんど人が歩いていない昼間、下った。
けっして短くない時間を経たからだろうか、まるで知らない場所を訪ねるような気分だった。
調べてみると、六本木墓苑というのが正式な名で、戦後、この周辺の複数のお寺の墓地がこの窪地に集められた共同墓地だという。理由は「道路拡張による」らしい。教善寺・深廣寺・光専寺・正信寺・崇巌寺(いずれも浄土宗)の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地とのこと。(参照:麻布を語る会「麻布未来写真館」分科会 平成22年度 活動報告 港区麻布地区総合支所発行)



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