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東京 / 異層

06 多摩ニュータウンNo.57遺跡

2025/09/16
小林紀晴
縄文時代前期前半(約6500年前)と中期(約5000年前)の時期の典型的な集落遺跡です。
昭和45年に行なわれた発掘調査によって、縄文時代前期前半の竪穴住居跡が2軒、中期後半の竪穴住居跡が8軒確認されました。
このなかには中期末のいわゆる敷石住居が3軒含まれていました。
また縄文時代早期の、獣の捕獲に利用されたと考えられる陥し穴も検出されています。
発見された住居の軒数は多いですが、同時期に存在した住居は2~3軒であったことが出土資料の検討から判明しています。         

(東京都埋蔵文化センターHPより)

 

コロナ禍が始まる数年前から私は関東で縄文時代に関係する場所を頻繁に訪れていた。最初に訪ねたのは、東京都多摩市にある「東京都埋蔵文化センター」。その名の通り、東京都が運営している施設だ。サンリオピューロランドのすぐ裏にある。ホームページには以下のようなことが書かれている。
 

開発によって掘削されてしまう遺跡を、発掘調査という考古学的な方法で適切に記録して後世に伝えることで、文化財の保護と都市開発との両立を図るとともに、埋蔵文化財やその保護に関する知識を広く普及していくことが必要です。

 
開発とは多摩ニュータウンの開発をさしているはずだ。よくいわれることではあるが、多摩ニュータウンは実は縄文からのオールドタウンで、5000年とか6000年前にすでに人々がこの丘陵で生活を営んでいたことになる。だからニュータウンという名称は象徴的で皮肉にも響く。
 
「東京都埋蔵文化センター」には「縄文の村」という施設が隣接している。「多摩ニュータウンNo.57遺跡」と呼ばれる縄文遺跡が発掘され、調査のあと盛土して保存されている。その上に竪穴式住居が復元されている。


「多摩ニュータウンNo.57遺跡」


このそっけないほど事務的、役所的な名前が私は気に入った。いやこれは名前ではない。ただの記号だ。番地に近いと考えた方が正しいのだろうか。

 

「多摩ニュータウンNo.57遺跡」には粋な計らいがある。「復元住居内焚火」というものが定期的に行われている、住居のなかで火が焚かれるのだ。そのスケジュールがホームページに掲載されている。多くは土日だ。私はそのカレンダーを見てここまで来た。人の姿はないのに竪穴式住居のなかで焚火がされていた。たったさっきまで縄文人がここにいて、立ち去ったばかりという錯覚を覚えた。
 
私が縄文に惹かれるには訳がある。生まれ育った長野県諏訪地域に縄文の痕跡が色濃く残っているからだ。日常的に縄文はすぐ隣にあった。子供の頃、雨が降った次の日(できるだけ晴れた日)、近所の畑に黒曜石でできたヤジリやその破片をよく拾いにいった。雨によって表面の土が流されると、地中にわずかに埋まっていたヤジリが顔をだすのだ。それが太陽の光をきらりと反射させる。だから簡単に見つかる。ヤジリはそもそもそこに存在しているものではなく、遠い昔に誰かの手によって運ばれてきた。誰かとは縄文人をさす。

 

親の世代は雨後に現れるそれを「カミナリさまのハナクソ」と呼んでいた。雨とともに空から降って来た。そんなふうに考えなければ説明がつかなかったからだ。考古学という意識が薄かった時代ゆえだろう。
 
数年前、私は地元で写真展を行ったのだが、その際、「父の十三回忌の日、矢尻を拾う叔母たち」という作品を制作した。それより数年前の父の十三回忌の日、親族でお墓参りに行ったときに撮った写真が元になった。線香をあげ終わると、父の姉と妹が喪服を身につけたまま、突然、隣の畑にぐんぐんと入って行きヤジリを探し始めた。探すといっても、ただ歩きながら足元を注意深く見るだけだけのことだが。実際に10分ほどのあいだに3、4個のヤジリを見つけた。その姿にカメラを向けたながら、気がついた。自分に撮っての縄文って、こういうことだと。

 

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