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月替わり展評「写真を見に行く」:世代の異なるふたりが交代で話題の写真展をレビューする

2025年8月のレビュー/終戦80年目の夏、汚れ無き眼による…、自由すぎる何か、黒い空洞と不在の存在

2025/09/02
沖本尚志

石内都「石内都 写真展 ひろしま in 松本」(信毎メディアガーデン 1Fホール)

 

■石内都「石内都 写真展 ひろしま in 松本」
会期: 2025/8/6〜8/17
会場: 信毎メディアガーデン 1Fホール(長野県)
 
1947年生まれの写真家・石内都は、広島に原爆が投下された80年後の当日から松本市で、作品「ひろしま」の展示を開催した。「ひろしま」は広島平和記念資料館に遺された原爆資料をネガカラーで撮った作品。2008年に発表以来、毎年資料館に寄贈される遺品を撮り足し続けている石内のライフワークであり、日本国内はもとよりカナダ、ニューヨーク、パリなど海外での巡回も進められている。
 
特筆すべきは、展示のインスタレーションだった。石内の展示は毎回会場の不利な状況を逆手に取った演出が見どころで、今回はギャラリースペースとしては通常使われないホール空間を使用した。演劇等に使われる多目的スペースで壁に写真を掛けられない。石内は黒く塗った舞台用の台座を3基組み合わせて衝立をつくり、額装した写真を掛けた。さらに、天井から幕のように写真を吊ったり、正面空間に「ひろしま」初個展時の映像作品を配置して、演劇的な空間演出を強く感じるインスタレーションとした。その演出はパワフルで、被爆した衣服の写真を強く美しく輝かせていた。

 

会期初日は、広島への原爆投下の日にあたり、石内と長野県立美術館館長の笠原美智子とのトークイベントも行われた。会話中、笠原が「ひろしま」の印象として、原爆の悲惨なイメージに対して石内の「ひろしま」は美しかったが、美しさ故に逆に悲しさが漂っていたと話した。その言葉は「ひろしま」の本質を表したものであり、本展の印象として心に残るものだった。

 

■「ヒロシマ・広島・hírou-ʃímə 全日本学生写真連盟の写真表現と運動」
会期: 2025/8/2〜9/7
会場: MEM(東京都)

 

「ヒロシマ・広島・hírou-ʃímə 全日本学生写真連盟の写真表現と運動」(MEM)

 

政治の時代、1960年代の若者は原爆の惨禍をどのように捉えていたのか。その疑問に応える当時の学生たちの写真と資料の展示がMEMで開催された。撮影を行ったのは全日本学生写真連盟、通称:全日のメンバー。全国の高校・大学の写真部を中心に組織された集団で、写真評論家の福島辰夫を指導者とし、当時の社会問題を主題に撮影・展示・出版活動に取り組んだ。
 
会場には、1968年8月から1971年8月まで合計11回行われた全日・広島デーの参加者たちが撮影した当時の写真と資料が展示された。現在の記念公園として保存される以前の爆心地周辺、世界遺産登録される以前の原爆ドームなど約60年前の被爆地広島の光景があった。撮影した彼ら学生たちにあったのは唯一強烈な問題意識であったという。そのせいか実直な写真に見え、宮﨑駿的な言い方をすれば〝曇りなき眼で見た風景〟であろうか。現在の視点からは、新鮮な情報として目に映る。
 
企画の発端は、名古屋市美術館の学芸員である竹葉丈が、2021年に同館で開催した「『写真の都』物語 ―名古屋写真運動史:1911-1972―」である。明治期から戦後日本に至る名古屋発の写真表現を取り上げるなかで東松照明、福島辰夫、中部学生写真連盟=全日を取り上げた。これをきっかけに全日の活動の解明が進み、今回の広島デーの写真と資料が発掘された。会期中に開催されたトークイベントに竹葉が参加し、ここで竹葉が語った全日の解釈が面白かったので紹介したい。それは、単写真ではなく組み写真の変容として捉えられるという指摘と、集団撮影行動に代表される活動が現代美術の共同制作と呼応しているという2つの指摘だ。今回の展示を、ぜひ竹葉丈の編纂による図録としてまとめてほしいと思った。

 

■総合開館30周年記念「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」
会期: 2025/7/3〜9/28
会場: 東京都写真美術館(東京都)

 

「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」(東京都写真美術館)より

 

欧州におけるニュー・カラー写真の先駆者であるルイジ・ギッリの展示が東京都写真美術館で開催された。ルイジ・ギッリの写真は単発的に都内のギャラリーでも幾度か開催されているが、大規模なものは今回が初めてになるのではないか。ギッリの写真を初期から見ることができるのは稀有な経験であり、もはや伝説として扱われるギッリの作品について議論を挟む余地はないのではないかと、展示を見る前は思っていた。しかし、今回の展示で作品を順繰りに見ていくなかでそうした懸念は消え、逆に作品が静かに語る写真の自由さであるとか、写真で生まれる豊かさに魅せられた。とりわけ、本棚を撮った「アイデンティキット」シリーズやアルド・ロッシのアトリエ、ジョルジョ・モランディのアトリエといった作品は自由すぎる故に、強く感銘を受けた。
 
こうしたギッリのアプローチは、世界のすべてを撮り尽くそう、人間の本質を撮ってやろう、といった写真家が抱く欲望とは真逆の位相にあると感じる。個性の探求という欲望からも遠く離れている。そんなことは忘れてしまいなさい、とでも言うかのように。自由という定義の認識がそもそも異なるという印象を受ける。探求すべきテーマとアプローチは、あくまでも自由で自在であるが、作品を成立させるにはその先にあるブラックボックスたるマジックタッチによって成る。この行為は知性と技術があって初めて可能になるわけで、ある意味特異点にいる人物でないとなし得ないと思われる。それ故、ギッリの作品は稀少な存在であり、いまなお熱心なファンを生んでいるのかと思われる。その一方で、ギッリの作品には構図と色の妙からなる写真の魅力と良心を感じた。本展は、最近の東京都写真美術館の企画展の充実ぶりを象徴する展示であったことも付け加えておきたい。

 

■榎本八千代「20050810」「家族写真 / Family Photo」
会期: 2025/8/1〜8/11、8/21〜8/31
会場: WHITEHOUSE「ナオナカムラ」(東京都)、ルーニィ247ファインアーツ(東京都)

 

榎本八千代「家族写真 / Family Photo」(ルーニィ247ファインアーツ)より

 

1967年生まれの榎本八千代による二つの写真展が東京都内で開催された。作者は20年前に保育事故で一人息子を亡くした。喪失を抱え、その喪失をテーマとした作品を造り続けてきた。「20050810」は息子を喪った日をタイトルにした作品で、遺された衣服や玩具を物撮りした。この展示で引っ掛かったのはタイトルだった。亡くなった息子は生きていれば20歳を迎えていたはずだ。写真家にとってはあり得ただろう子育ての日々が、制作には込められているのではないか、と思い至った。20年分の労苦をかけて育て上げた作品なのである。同時に、吉田松陰の辞世の句「親思うこころにまさる親心...」が頭に浮かんだ。親心と創作の本懐、そして作品の裏側にある20年という歳月の厚みを感じる展示だった。
 
「家族写真 / Family Photo」は、榎本が親子で撮った家族写真から息子の像を取り去り黒い空洞で示した作品を展示した。黒い空洞は榎本のステートメントでは「黒い穴」と表現されていた。具体的に写真では、榎本とその夫、亡くなった息子が写った3人の家族写真、あるいは父と子、母と子が写った家族写真の息子の肖像部分を黒く塗りつぶしていた。見る人によっては不快さを感じる向きもあるだろうこの作品で、私が引っ掛かったのは「黒い穴」という表現だった。黒い穴、空洞は深い喪失を明示し、不在の存在を際立たせている。「不在の存在」は、非常に文学的なテーマであろう。

 

不在だからこそ気になるし、その存在が際立つということは、実存の問題につながる。そもそもこの作品を生んだのは保育事故であり、それは極めて社会的=政治的な問題へ接続する。榎本が使用した「黒い穴」という表現は、個人=文学的な領域に属していた本作を、社会=政治的な領域に飛躍させるマジックワードだったのではなかったか。写真の表現領域としての「不在」というテーマが頭に浮かぶ。有名なスターリン時代の粛正写真を含めて、いま一度過去の「不在」写真を調べ直したくなる示唆に富む展示だった。

 

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