さて、前回は謎のカメラであるgakken ES35Cについて入手の経緯と外観を紹介し、本体以外にほぼ唯一の手掛かりとも言えるカメラデザイン登録集での掲載例を紹介した。世の中に出た形跡のないカメラだけあって、このカメラに関する直接的な記述というのは筆者の知る限りではあのカメラデザイン登録集の記載が全てである。つまりこのカメラの素性は何も分からないも同然なのだが、それでもまだヒントは隠されている。その一つがレンズの銘板に刻まれたNEOKORの文字である。
古めの国産大衆機に詳しい人であれば、ひょっとしたらこのNEOKORという文字に見覚えがあるかもしれない。そう、かつて日本に存在したカメラメーカーであるネオカのカメラには、このNEOKORを冠するレンズが使われていたからである。

NEOCA ⅠS(1954) 写真提供:我楽多屋
ネオカというメーカーは1951年設立の瑞穂光機製作所をそのルーツとしており、当初はミヅホシックスなどの中判スプリングカメラを製造していたが、その後ラインナップの主力はネオカ35などの35mm判カメラへと移行した。その後ブランドや会社名としてもネオカを名乗るようになり、比較的廉価な35mm判カメラに強みを持つメーカーとして知られていた。要するに50〜60年代にはよくあった中堅カメラメーカーの一社である。過当競争気味であったスプリングカメラから35mm判へ上手く転身したという意味では比較的上手くいっていた会社の一つとも言えるかもしれない。しかし50年代も末となると35mm判カメラにおいてもその競争は激しくなり、不況も相まって必然的に中小カメラメーカーの淘汰が進むこととなった。ネオカもその例に漏れず、競争激化の煽りを受けて1960年には倒産してしまった。
ちなみにネオカ倒産後のことではあるが、翌1961年にはそれまで高級機(レンズ交換式レンジファインダー機)メインだったキヤノンがキヤノネットで中級レンズシャッター機市場に参入し、その圧倒的なコストパフォーマンスによって大ヒットした。これにより比較的廉価なレンズシャッター機の市場はこのキヤノネットによって完全に塗り替えられることになった。こうした時代の変化によって二眼レフやスプリングカメラから身を起こし、やがて廉価な35mm判カメラに活路を求めた中堅カメラメーカーも企業体力の小さいところから順に櫛の歯が抜けるように減っていった。1950年代末から1960年代初頭というのはカメラメーカー淘汰の時代でもあったのだ。
さて、カメラというジャンルにおいて同じ名前(NEOKOR)の先行使用例があるのだから、ここに何らかの関連があるのではないかと考えるのは自然なことだろう。とはいえ、先に述べた通りネオカというのは1960年には活動を停止している。一方で、前回カメラデザイン登録集で示した通りgakken ES35Cの制作年は少なくとも1970年前後であると考えられるわけで、この間には10年の開きがある。
なお、余談だがNEOKOR銘になる前のネオカには帝国光学のブランドであるZunow銘のレンズが搭載されていた。Zunowといえば5cm F1.1で有名だが、実際その威光もあってか現在の中古カメラ相場ではズノー付きのネオカは(当時の中小メーカー製35mm判カメラとしては)比較的高価で取引されている。その一方で銘が変わったNEOKORの場合は同等のレンズスペックであってもズノーのような高値は付いていない……というのが現状である。
閑話休題。1960年には滅びたはずのNEOKORという名前が何故10年も経ってから、それもgakkenと名乗るカメラに装着されて姿を現したのか? 実はこれについても推測の余地はある。その答えとなるのが次の資料である。

菅谷光学の概要:『帝国銀行・会社要録』第51版,帝国興信所,1970,P465
かつての瑞穂光機製作所からネオカに至るまで、その代表者であり技術者として同社を牽引していたのは、社長であり技術者でもある菅谷貞氏であった。そしてこの菅谷氏はネオカの廃業後に新たにカメラ関係の技術コンサルタントとして活動していた形跡があるのだ。
実はこのような廃業カメラメーカー出身者の転身というのは珍しくないようで、筆者のこれまでの調査では同様に他のメーカーの代表や技術トップを務めていた人物がコンサルタント的な立場となり、他のメーカーに対してアドバイスを与えていたという実例がいくつか見つかっている。特にこの菅谷光学研究所については法人化された上で、ある程度の従業員と工場を抱えており、カメラの開発から試作までを一括して担う能力があったようである。少し話は前後するが、この後1978年には菅谷光学の自社ブランド品としてミニマックスという110フィルム使用のカメラを輸出向けに販売している。

本格的110機であるミニマックス:日本写真機光学機器検査協会歴史的カメラ審査委員会 編『日本カメラの歴史(続) : 歴史編資料編』,毎日新聞社,1986,P87
なお、またまた余談になるがこのミニマックスと同時期に発売されたペンタックス オート110についても菅谷光学とは遠からぬ縁があるとされている。ペンタックスがオート110を発売する前に外部で製作された試作機が存在しており、これを作成したのが菅谷氏であるとされているのである。例えばペンタックスの設計者であった鈴木氏の書いたペンタックスカメラ開発物語という書籍には、当時を振り返って下記のような記述がある。
『松本三郎(筆者注:当時のペンタックス社長)は、オート110を外部の試作カメラ屋に試作をさせていた(中略)渡されたのは小さな一眼レフカメラであった。私(筆者注:鈴木氏)はまずファインダーを覗き、その後、各部を見て行った。正立正像でクイックリターンミラー、撮影レンズはネジマウントの交換式、巻上げは軽金属利用のノブ式、そして裏蓋を開けると110フィルムが使用されている。試作品は決してスマートとは言えず、製品化するには抜本的に見直す必要を感じたが、私は110フィルムを利用した一眼レフと言う着想に頭が下がった。(中略)社長から預かった試作品を試作担当者に分解してもらい、内部機構で利用できるところがあるかどうかを確認した結果、ほとんどないということであったので、110フィルムを利用すると言うカメラの構成だけを参考にして、新規設計に入ることになった』
鈴木 實,『ペンタックスカメラ開発物語』,2010, P143-144

PENTAX auto110(1979)
また、別の資料となるがかつて写真工業誌において菅谷氏にインタビューした記事があり、ここでも菅谷光学研究所やオート110について触れられている。
『ネオカは1960(昭和35)年、折からの不況と生産過剰がたたって倒産するが、菅谷氏は臆することなく菅谷光学研究所を立ち上げ、別なカメラ作りに転身していく。それはカメラの改造、特殊用途向けの開発、そして試作の請負であった。ネオカの時代にも露出計を内蔵した6×6cm判一眼レフやM42マウント35mm一眼レフの試作も進んでいた(中略)このような背景で菅谷氏はリコーの輸出用一眼レフ、リコーSLX500、同TLSEE。そして富士写真フィルムのフジカST701などを設計している。また1971(昭和46年)年に110フィルムがコダックから発売されるといち早く着目し、その小型画面にふさわしい、メタルフォーカルシャッターを持つペンタプリズム使用、レンズ交換式一眼レフを個人プロジェクトとして開発する。レンズは元オリンパスの柳川三郎氏の手になるF2大口径レンズであった。このプロジェクトは旭光学社長の故松本三郎氏が注目し、すべてが買取られる。松本社長は、設計部にこれを見せて、ハッパをかけ、あのオート110の開発につながったという』
萩谷剛,人を巡る ミズホシックス・ネオカ35からミノックスサイズ一眼レフまで 菅谷貞氏,『写真工業 2002年7月号』,写真工業出版社,2002,P95
このように実際のオート110はペンタックスで全面的に再設計されたため、メカニズム面において菅谷氏の影響は少ないようだが、一方で試作機の存在がオート110にとって原点であり、このカメラなくしてオート110が存在しなかったであろうこともまた確かなのである。また、リコーや富士フイルムの一眼レフ参入時にメカニズム面を設計したのも菅谷光学だったということなので、やはり一定の技術力があったのではないかと考えられる。
当時掲載された広告:『写真工業』1970年8月号,P81
さて、この菅谷光学研究所の存在を前提とすれば、この謎のgakkenカメラについてもある程度の推測が出来る。まず、1970年当時の学研には出版部門とは別に映電事業部という部署があり、この部門ではオーバーヘッドプロジェクターや事務機器を製造・販売していたようなのだ。実際にカメラデザイン登録集の別のページには学研からの申請としてオーバーヘッドプロジェクターや映写機のデザインと思われるものも登録されており、この映電事業部は学校関係者向けを中心とした一事業となっていたとのことである。なおこの映電事業部については元CAPA編集長 馬場氏への本機の聞き取り調査時にもそのような部署が存在したとの証言が得られている。ただし馬場氏の学研への入社年は1971年であり、この1970年登録とされるカメラは社内でも見たことがなく、今回初めて知ったとのことである。
また、前回このカメラは学研の付録カメラではなさそうだと述べたが、その一方で、たとえ付録カメラであってもカメラの設計にはある程度の専門性が要求されると思われる。つまり学研自身が付録カメラの設計をしていたというよりは、何処かカメラを設計出来るメーカーに委託されていたのではないか――例えばそれが菅谷光学だったのではないか――という考え方も出来る。もちろんこれは状況証拠からの筆者の想像である。
想像ついでにさらに進めると、当時コニカC35などの小型カメラがヒットしていたため、設計のアテと販売のアテが揃っている学研においてもそれらに類するような小型カメラを作り自社の流通ルートで販売するといった検討がされたとしてもそれほど不思議ではないように思える。そしてその依頼先についてだが、おそらく当時も設計コンサルタント的な動きをしていた人や会社はいくつかあったのだろうが、菅谷光学は専門誌に広告を出すほどであったので、この手の会社の中では名が知れた方だったのではないかと思われる。
そんなわけで依頼を受けた菅谷光学はgakken銘の試作機を作成し、レンズ銘については暫定的にかつての自社ブランドであるNEOKORを使用して完成させた。そして学研は完成したカメラについて輸出も想定してデザイン登録を行った……が、試作からそれ以上先に進むことはなかった。そしてそれで終わってしまったというのが筆者が想定するこのカメラの辿ったシナリオである。
では何故このカメラは世に出なかったのかだが、正直その理由は筆者にも分からない。ただ、このカメラが登録された春までは好景気だったものの、夏頃には景気後退期を迎えており、さらに翌年の1971年にはニクソンショックが起こりカメラを含む日本の輸出産業は大きな打撃を受けることになった。このような時期にカメラに新規参入するというのはリスキーであるという判断がなされたというのが、一番納得のいくオチなのではないかと思う。
いずれにせよ、レンズのNEOKOR銘からその主である菅谷氏の活動を調べた限りでは、このカメラは間違いなく1970年前後に菅谷光学研究所において設計・製作されたカメラだという結論にたどり着く。
今回は分解等は実施していないのでメカニズム面においての特徴はこれ以上突っ込めないが、本稿によって、少なくともこのカメラが生まれるに至った背景についてはある程度明らかに出来たのではないかと思う。
[お願い]
もしこのカメラについて本稿の情報以外に何かご存じの方がいらっしゃれば、その際は是非情報をお寄せください。お待ちしております。


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