2024年1月4日、写真家の篠山紀信氏が亡くなった。死因は老衰。享年83歳。
1940年東京生まれ。実家は北新宿にある真言宗系の寺であった。日本大学藝術学部写真学科に入学。同級生に沢渡朔がいた。在学中から頭角を現し、1961年に広告写真家協会展APA賞を受賞し、広告制作会社「ライトパブリシティ」に入社。1968年よりフリーの写真家として活動を開始する。
1966年、東京国立近代美術館「現代写真の10人」展に最年少で参加する。1976年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本館の代表作家に選ばれるなど、写真家としての評価を高めた。
篠山紀信の活躍の場として雑誌メディアは大きかった。1971年より『明星』の表紙を担当、1975年に雑誌『GORO』で歌手の山口百恵特集で使い始めた「激写」は篠山の代名詞となった。1978年に写真集『大激写 135人の女ともだち』がベストセラーになり、1980年に篠山をメインにした写真雑誌『写楽』が創刊された。
1973年にデビューしたロックバンド、キャロルを撮影。同じ年には『女形・玉三郎展』で芸術選奨新人賞受賞するなど、時代を象徴するアイコンから伝統芸能まで、被写体を選ぶことなく撮り続け、その姿勢は晩年まで一貫していた。
一方で自身の作家性を発揮した作品として、1971年にリオのカーニバルを撮影した『オレレ・オララ』、1975年に発表された『家』『晴れた日』は代表作として取り上げられることが多い。また1977年に『アサヒカメラ』での連載をまとめて発表された中平卓馬との共著『決闘写真論』では、中平の文章と篠山の写真という水と油のような関係がスリリングさをもって誌面で展開された。
1991年、女優の樋口可南子が被写体となった写真集『Water Fruit 不測の事態』、本木雅弘『White Room』、宮沢りえ『Santa Fe』でヘアヌードブームを巻き起こし、当時の雑誌メディア、テレビのワイドショーで大きく取り上げられ、話題を提供した。
主な受賞歴として1970年日本写真協会年度賞、72年芸術選奨文部大臣新人賞、73年講談社出版文化賞、79年毎日芸術賞、98年国際写真フェスティバル金賞、2020年菊池寛賞など多数ある。
篠山紀信氏の活動した時代を振り返ると、やはり雑誌や広告といった媒体の存在が大きい。戦後の高度経済成長を背景にして、雑誌や広告で使われる写真は時代の象徴となり、被写体は顔となった。その中で高い評価を受け、たくさんの仕事をこなしてきた篠山はまさに時代の寵児であったといえよう。同年代の写真家である荒木経惟、立木義浩、横須賀功光、沢渡朔などもやはり雑誌や広告を舞台にして、多くの実績を残してきた。その中でも篠山の存在が際立って見えたことは否定できないだろう。彼が果たしてきた仕事を検証するにあたり、自ずと日本のメディア史が背景となることは必須であり、同時にそれは20世紀における映像表象とは何かという問い掛けに繋がっていく。今後は膨大に残された篠山の写真に関する検証が待たれるであろう。
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