吉村朗は1959年6月3日に生まれ、2012年6月2日に世を去った。1982年に日本大学の写真学科を卒業し、その後東京綜合写真学校で学んだ。1980年代半ば頃、新世代スナップの旗手として、鈴木清などと並び一部で注目を集めた。
吉村はそれまで撮影してきたスナップ作品をすべて破棄し、次なるテーマへ挑んだ。それは自身のルーツと日本近代史であった。福岡で生まれた吉村の家系は当時日本に占領されていた朝鮮に入植し、医師や軍人、警官といった仕事に従事していた。日本が東アジアへ侵略し、そして戦争へと進んだ時代、吉村家はいわば権力側にいた。
日本が抱える負の遺産と自らのルーツを重ねながら、吉村は韓国へ渡り、当時の記憶の面影が残る場所を尋ね、シャッターを切っていった。『吉村朗の眼』(さいはて社刊)にはこの頃撮影された「分水嶺」「闇の呼ぶ声」「新物語」「ジェノグラム」と題された作品を中心に編み、初期スナップの余韻をもつ「THE ROUTE 釜山・1993」がページの後半に掲載されている。
吉村が作った一連のシリーズは観念的で、重い印象は否めない。カラーで撮影された「THE ROUTE 釜山・1993」はフットワークの軽さはあるものの、対象に対してどうアプローチするか、戸惑いがあるように感じられる。だが、そこに過渡期の揺れのようなものがあり、興味深い。
吉村はある時期から自分が求める表現が写真の領域を超えてしまうであろうことに気付きながらも、その手段を考えあぐね、写真という方法で実践していた。たしかに歴史を背景とした主題を写真で表現するには、あまり適しているとはいえない。それでも吉村はカメラを手にして、その場所に赴き、記憶の残滓を掬い取るように撮影していたのではないかと想像する。
吉村は自分のルーツを反省しつつ、日本と朝鮮の歴史に対峙した。いいようのない情念が表象に滲んで見えてくるのは、吉村の強い念が込められているからなのか。
吉村が写真を学び、ストリートスナップをしていた頃、韓国では大きな事件が続いた。1979年当時の大統領だった朴正煕が暗殺、1980年金大中が逮捕され、光州事件が発生。1983年ミャンマー訪問中の全斗煥大統領を北朝鮮のテロリストが暗殺を目論むも失敗。そして1987年6月、大規模な民主化運動が展開された。軍事政権下にあった当時の韓国での出来事は、その源流を辿れば日本の植民地時代に繋がっていく。
当時、吉村が韓国で起きた出来事をどう見ていたのか知る術はないが、彼の残した写真を見つめながら、日本と東アジアの歴史の禍根は、今もまだ続いていることに気付かされる。つまり、吉村の写真は生き続け、見る者に問いを発している。
- 吉村朗の眼
―Eyes of Akira Yoshimura―
吉村 朗 写真
深川雅文 編
北尾 崇 装幀
言語 日本語/英語
オンデマンド&電子書籍
2022年10月20日発行
A4変形判並製/240頁
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