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第三回 ニコンのAF一眼レフ黎明期──元ニコン開発陣インタビュー[前編]

2026/03/01
佐藤成夫

AF一眼レフ関係者インタビュー・今回はニコン編として当時ニコンで一眼レフ開発に携わられていたお二人をお招きして、黎明期のAF一眼レフについて伺った。

 
 
 後藤哲朗(ごとう・てつろう)さん
 1950年、名古屋生まれ
1973年、日本光学工業株式会社(現ニコン)入社。
主たる担当はフラグシップカメラ(F3~F6、D1~D3S)及びDf。
執行役員/映像カンパニー開発本部長時代には交換レンズ゛、スピードライト、アプリなど映像全製品の開発設計も担当。
映像事業部副事業部長/ニコンイメージングジャパン会長、後藤研究室長を経て2019年、退社。
 
 
 
 保泉俊明(ほずみ・ときあき)さん
 入社:昭和50年(1975年)配属:カメラ設計部
担当はカメラ本体、付属品全般
主要設計機種:FA、F-401、F601、F90、PRONEA 600i
その後、試作にて、各製品の量産設計化への橋渡しを担当
最終的に仙台ニコンへ出向し、量産品の現場での量産立ち上げ、
指導を設計視点で問題点の解決、品質改善を図る。2017年、退社
 
 

現代に繋がるニコンのAF一眼レフ始まりと言えるF-501とF-401(写真は改良版のF-401S)
 

 


──本日はよろしくお願いします。このAF一眼レフに関するインタビューシリーズの趣旨としては主にαショック前後、AFカメラ黎明期に各メーカーのその後に繋がるカメラ達がどのように生まれていったのかを伺えればと考えております。さて、早速ですがニコンは先行するF3AFで「自社開発AFセンサー&レンズ内モーター」という形で製品を投入したにも関わらず、実際に以降のAF一眼レフの本流となったF-501では「ハネウェルTCLモジュール+ボディ内モーター」という構成に変化していました。この辺りの理由や、マウント変更は検討したか、また他のメーカーについてどう思っていたかなどについても伺えればと思っています。
 
後藤 この辺りのお話をする上で、まずは当時のニコンの開発体制を説明したいと思います。当時は設計グループがいくつかに分かれていまして、簡単に言うとF一桁系列を担当するメカ部隊と、それ以外の一眼レフメカ部隊。この他に電気系を設計するグループ、レンズ鏡筒を設計するグループ、レンズシャッターカメラのグループなどに分かれていました。私は元々電気系のグループにいて、F3(F3AFボディも含む)などを担当したかなり後に一桁機のメカ部隊の課長になりました。当時の一桁機というのは普及機で確立した技術をより高度に・高速に・堅牢に(プロフェッショナル向けに)作るという面がありましたので、α-7000が出た時代にはオートフォーカス機の発展を横目に見ていたという感じになります。
 
 
保泉 そして当時私が居たのが、それ以外の一眼レフ……つまりコンシューマー(ビキナー)向けの一眼レフを設計する部隊になります。具体的にはF-401の設計を担当しています。
 
──つまり、AF機との関わりで言えば、後藤氏がF3AF(ボディ)に関わり、保泉氏がF-401を含むコンシューマー(ビキナー) 向けにそれぞれ関わっていたわけですね。
 
後藤 そうなります。ちなみにα-7000については、F3AFを手がけていた立場から言えば(他社からも)意外と早く出てきたなという感じはしましたね。
 
──F3AFは1983年なので、各社のAF機の中でもかなり早く出てきたモデルになりますね。
 
後藤 あれはデザイン的にも実験機みたいに見えるかも知れませんが、量産機であるF3を元にいち早く出したということに意義があるという機種でもありました。
 
保泉 当時の私の立場を説明しておくと、AF機を手がける前はFA(1983年)とFAゴールド(1984年)に関わっていました。FAゴールドの設計が手を離れて、次は何をするのだろうと思っていたら、AF機をやるということになってその手伝いを始めたんです。当初はレンズ内にモーターを収めた交換レンズ鏡筒設計のお手伝いで……。
 
後藤 そう、元々ニコンのAF一眼レフはF3AFのレンズ内モーター方式を引き継ぐと思っていました。ところがそれがひっくり返ってしまった。
 
 

ニコンF3AF
 


──なんと。F3AFがレンズ内モーターなのに何故F-501以降はボディ内モーターになったんだろうと思っていたのですが、最初の構想ではレンズ内モーターだったのですか。FAゴールドの後ということはα-7000もまだ世に出ていない時期ですし、F3AFで実績のあるレンズ内モーターでスタートしていたんですね。そして(α-7000のことを知らない段階でも)やはり次に目指すべきはAF機であるというのは各社一致していたんですね。
 
保泉 AF機構がひっくり返ってしまったのはα-7000の影響です。この辺りの詳しい話はあとでするとして、AF一眼レフの設計者としては先に述べた通りF-401を担当しました。このF-401はAFセンサーもハネウェルではなくニコン設計のものですし、AI-Sレンズに対応したことで瞬間絞込測光ではない開放測光を検討していました(筆者注:F-401の前モデルにあたるF-501は、プログラムモードはあるが瞬間絞込測光で対応していた)。
 
 

ニコンF-401
 
 

ニコンF-501
 
 
 

ニコンF-301
 
 
──F-401は廉価モデルのポジションということもあって派手ではないですし、今となっては位置付けが難しいカメラですが、確かに機能面から見るとその後の基礎になっている仕様も多いと感じます。
 
保泉 当時このモデルはかなり戦略的な価格で販売したというのもあって、質感とかはちょっと不足している部分もありますけど、そもそもF-501が発売になった次の年の7月には出していますから、かなりのスピードで作っているんですよ。
 
 
 
──もちろんそれまでの蓄積はあるにしても、F-501もF-401も、α-7000を見てからボディ内モーターへ転向して本格的に対抗機を作ったとしたらかなり早いですよね。もちろんF-501はAFセンサーがハネウェルだったりはするんですが、いち早く対抗機を出して(1986年4月 F-501発売)、さらに次の年にはF-401が出て、値段もぐっと下がったという。
 
後藤 基本性能は当時としてもかなり高かったと思います。
 
保泉 価格面については営業からの強い要望もありまして(笑)
 
──そうなると、F-401というのは思った以上に重要なカメラになるんですね。そしてα-7000がなければ、あるいはもう少しタイミングがずれていればレンズ内モーターのF-501が出ていたという可能性も……。
 
後藤 この後の経過を見てもらえば分かりますが、どちらの方式も出来るようなシステムにしてありました。超望遠はやっぱりボディ内モーターでは苦しいぞっていうのもわかっていましたから。
 
保泉 マウントを変えずに両方出来ればベストですよ。マウントを変えたらこれまでの蓄積もゼロになってしまうから。
 
筆者注 実際にニコンはカプラでの連動が難しくなる超望遠レンズに関しては早期からレンズ内モーター方式を採用している。
 
後藤 ただ、この時(AF一眼レフ参入時)にマウントを変えた方が良いのではないかという議論も当然ありました。しかし当時の設計部長を始めとする上層部の強いユーザー志向でマウントを変えることはありませんでした。ちなみにその後マウント変更の話が再燃したのはデジタル化のタイミングでした。この設計部長がそのときには社長になっていたので、変更しなくても解はあるはずだという話に……。ある程度の制約は理解した上で、ユーザーの資産を活かすためには同じマウントで頑張るべきだと。
 
保泉 話を当時に戻すと、私とAF一眼レフとの関わりはレンズ内モーターの交換レンズ鏡筒設計のお手伝いから始まりまして、レンズ内モーター仕様の50mm F1.4の設計案もその時点で既に出来ていました。
 
──となると、少なくとも1984年にはレンズ内モーターでのAF機の構想があって実際に設計も進んでいたんですね。そしてレンズ内モーターからボディ内モーターに転換したのは、α-7000を見てとのことなので1985年の初頭からと考えてよいのですか。
 
保泉 その通りです。それまではレンズ内モーターで進めていたのですが、レンズ内モーターにはコストやサイズ面での課題もまだあった。そんな中でボディ内モーターのα-7000が出て、ボディ内モーターでも行けるのではという議論になったのでF-501はボディ内モーターになりました。この途中変更のせいでF-501の開発者は苦労したみたいです。私は(自身が担当したF-401は)F-501の経過よりボディ内と決まった段階だったので悩まずに済みましたが……。
 
──F3AFからするとニコンのAF機はレンズ内モーターでもおかしくなかったと思うんですが、こういう事情だったんですね。
 
後藤 当時の資料では両者を念入りに比較して選んだということになっています。
 
筆者注 ニコンのAF一眼レフへの着手及び方式について、これまで発表された資料での記述については下記の通りである。
精密工学会誌1986年10号で富野直樹氏が発表している「AF一眼レフカメラニコンF-501の開発」という記事では「方針としてはボディ内駆動方式に向いてはいたが、その技術的裏付けを確定させることに努力を要した」とある。
またニコン設計者であった豊田堅二氏によるニコンファミリーの従姉妹たちという書籍においてはニコンのAF一眼レフへの着手時期を「開発は自動巻き上げ内蔵のマニュアルフォーカス機とAF機の二本立てで行くことになった。今日のAF一眼レフの方向を大きく決定づけたミノルタα-7000もまだ発表されていない1982年のことである」としている。
この他に当時の関係者がレンズ内モーター構想に触れているものでは写真文化協会,写真文化2008年2号「私のライフワーク」というコラムにて、記事掲載当時ニコンの特別顧問であり、F-501の開発当時は事業部長だった小野茂夫氏が「Fマウントにとって最大の転機はニコンF501を開発したときでした。このカメラはニコンの最初の本格的AF一眼レフで、レンズに焦点合わせ用のモーターを内蔵した形で設計が進んでいました。しかし、モーターを内蔵したために一部が出っ張って不格好で、このままでは発売できないという意見が強く(中略・ボディ内モーターとの比較検討の末ボディ内モーターを元として)モーター内蔵レンズにも対応するダブル駆動方式をとることにしました」と明かしている。 
 
保泉 そんなわけで結果的にボディ内モーターを採用することになるのですが、Fマウントのままでボディ内モーターに対応させるというのもまた大変でした。例えばF-301のFマウントとF-501のマウントって微妙に違うんですが、どこが違うかわかりますか?
 
──パッと見はAFのカップリング穴くらいに見えるのですが……。
 
保泉 実はここ(時計の6時方向)にビスが増えています。また、他にも影響の無い程度で変更しています。
  
 


 

 

──本当だ、増えていますね。
 

後藤 ニコンFの時代からビスは4つだったんですが、この時点で一つ増えているんです。
 
保泉 これはAFのカップリングを通すためにこの裏に切り込みが入っているんですけど、ここにそのまま切り込み入れるとバヨネットのバネが分断されてしまうんです。なので、補強するためにビスを追加しています。既にFマウントの規格は決まっていて、他の部品も配置されていますから、モーターやカプラーを増やそうにも他の部品との兼ね合いで決めなければならないのです。他にも苦労はあって、たとえばカプラー式のAF機の場合、レンズ交換時に脱着ボタンを押すとレンズ固定ピンとカプラーの両方を待避させないといけない。ミノルタだとこの固定ピンとカプラーの位置が近いので無理なく連動させられるんですが、ニコンはそうもいかないんです。そして初号機であるF-501はF-301と兄弟機ということもあって、あまり大がかりな変更をしないようにというのも厳命されていました。
 
※筆者注 この固定ピンとカプラーの位置関係は、ミノルタAマウントの場合時計の3時・5時の位置にあるのに対し、ニコンFマウントでは3時・7時の位置にある。当然長い距離を連動させる方が複雑になるし、Aマウントとは異なり既存マウントをベースにしているので元々あるメカを避けながら実現しなくてはならないということになる。
 
後藤 単純に近付ければいいわけでもありません。ニコン特有の絞り駆動メカやAFセンサーの配置などとの兼ね合いがありますからね。
 
保泉 こうした中でモーターの配置も考えて、絞り駆動メカとAFモーターを上手く入れ込んだんですね。なのでF-501ではグリップ側に縦にモーターが入っていて、これをカプラーの回転方向に方向側に縦横変換して伝えているんです。この膨らみ(AE-LボタンやAF-Lボタンのある部分)はモーターの逃げでもあるんです。ただ回転方向の変換は機構が複雑なので以降のモデルでは改善しています。
  
 

 

──そういえばこの膨らみはF-301にはなかった部分ですね。ちょっと無理をして押し込んでいる感じもありますが……。
 
保泉 TCLモジュールの場合はどうしてもこうする必要がありました。F-401からは自社製のAFセンサーに変わっているのですが、こちらはコンパクトなのでこのような配置にしなくても成立するようになりました。
 
後藤 そうまでしてFマウントを堅持しようとしたのは、やはり(当時の時点で)30年間変更されておらず、ユーザーにも多くのレンズ資産があったからというのが最大の理由です。
当時の設計部長が「レンズマウントを変えることなく、ボディ内AF方式でもやれるのか?」と聞いたところ設計者からは「やれる」という回答が返ってきたからこうなりました。
 
 
保泉 F-501の場合は、F-301でサイズやメカ配置などもある程度決まっているところに対して(当初はレンズ内モーター・途中からボディ内モーターで)AF化するという難しさもあったわけです。F-401はそういったものがないのである程度自由が効いたのですが。
 
──そうなると、F-301とF-501はやはり最初から兄弟になることは決まっていて、F-301はMF機として、そしてF-501は(AF方式はともかくとして)AF機になることが決まっていた中で、α-7000という外乱があって方式が変わりつつ、でも当初の位置付けからは変わらなかったということなんですね。
 
後藤 もちろん社内でも議論は多々あって、マウントについてももっと他の方法が良いという声のなか、ユーザー志向を考えたトップがこれで行こうと決めて、設計者はそれを実現するために力を尽くしたという感じですね。
 
──そういえば、カプラもそうですが電子接点の位置や仕様については議論はあったのですか?
 
後藤 これはF3AFという先例があったのでその配置に従うということで簡単に決まりました。
 
保泉 接点の仕様が既に決まっていたので、そちらに時間を割く必要がなくなったというのはかえって良かったのではないかと思います。とにかく時間との勝負でもありましたから、決まっているものはなるべく活かそうということで。ただ、マウントを変えなかった以上互換性の維持は必須になるので、過去に出たレンズで問題がないか検証をするのが大変でした。
 
後藤 これ以降もFマウントには、メカだけでなく、通信機能への様々な追加がありましたので、その度に互換性の確保の問題が出て来ましたね。すべて解決できましたけれど。
 
──不変のFマウントを支える、数え切れないほどの検証があったわけですね。そういえば、ニコンのAFレンズにはごく初期だけピントリングのところに楔形の切り欠きが付いていたんですが、一体これはなんだったんでしょうか? 結局活用されなかったみたいですが。
 
後藤 切り欠きが付いていたという記憶はあるんですが、何に使おうとしていたのかまでは……。なんでしょうね?
 
──当時の記事(写真工業誌など)でも何かに使うんだろうとは書かれているんですが、不明になっているんですよね。なにかオプションでも用意するつもりだったのか……。
 
保泉 後々のことを考えて付けたものの構想だけに終わった仕様もあるので、これもその1つではないかと思います。
 
──なるほど。いずれにせよこの時期の各社にとっては決断の連続で、ニコンは元々進めていた方式を取りやめてボディ内モーターへ進んだにも関わらず、比較的早期に対抗機を発売しているわけで、そうした内情を伺うとやはり開発力というか、底力みたいなものを感じますね。
 
保泉 α-7000が1985年1月に発表になって、翌1986年4月にはF-501を発売しているわけです。この間もちろん設計・試作・量産とあるわけで、とにかく即断即決で進める必要があったわけです。
 
──経緯というか内幕を知らないユーザーからしてみれば、時系列的にα-7000の後に出てきたように見えてしまうけれども、実際はそれ以前から計画はあったと。そして結果としてα-7000の影響は受けたけども翌年には対抗機を、それもこれまでのマウントを堅持して登場させた。いくらベースになる設計があったとしても驚異的ですよね。
 
保泉 ただし、もしゼロベースでマウントを考え直していたとしたらもっと時間がかかっていたかもしれません。
[つづく]
 
 ※2025年6月22日(日)弊社PCT会議室にて収録。 撮影=編集部

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