top コラム考へるピント2 1980年代の銀座のギャラリー

考へるピント

2 1980年代の銀座のギャラリー

2021/12/27
上野修

 

銀座ニコンサロンといえば、中央通りの松島眼鏡店のうえ、という話も、そろそろ通じない時代になってきているのかもしれない。

 

私がはじめてニコンサロンに行ったのは、1980年代だっただろうか。そのころ、数寄屋橋には富士フォトサロンがあり、ギャラリーめぐりといえば、そこがスタートだった。

 

いや、そうだっただろうか。そもそもギャラリーめぐりをしていただろうか。そういう習慣が一般的ではなかった時代だったような気もする。

 

こうして書きはじめてみると、覚えているようで、まったく覚えていないことも多そうだ。記憶違いもあるだろうが、とりあえず、1980年代の銀座をいまどう覚えているかという記録として、書き進めてみよう。

 

 

4丁目の並木通りにはナガセフォトサロンがあり、銀座5丁目の鳩居堂のうえにはコンタックスサロン銀座があった。それぞれのギャラリーには、それぞれの傾向があり、行くギャラリーと行かないギャラリーが、はっきりしていた。だとしたら、巡回ルートのようなものもなかっただろう。

 

したがって、いまのように、同じルートで回っている人の名前を芳名帳で何度も見かけることもほとんどなかった(いまのように、というか、正確にはコロナ禍前のように、だが)。 

 

キヤノンサロンは、5丁目の三原通り。それほど大きなスペースではなく、サービスステーションの横に併設されていた。6丁目か7丁目には、ミノルタのサービスステーションもあったはずである。

 

 

 

昔は、写真集を見ることができる場所が、ほとんどなかった。キヤノンサロンから三原橋地下街をくぐって4丁目に行くと、海外の写真集を閲覧できる図書館があった。たしか「みんゆう」と呼んでいたけれど、どういう漢字だったか。検索してもなかなかヒットしない。1990年代の地図を引っ張り出してきたところ、あった。明裕国際会館、たぶんこれだ。ここの地下に図書館があって、ウィリアム・クラインの『New York』などを見たのである。閉架式で、手続きが必要だった。

 

海外の写真集といえば、イエナ書店である。晴海通り沿いの5丁目、1階2階は近藤書店で、3階がイエナ書店だった。当時の本屋さんは、買った本にカバーをつけてくれたものだが、「知は力なり」と記された近藤書店のオリジナルカバーは、切れ込みを入れてピッタリ折り込んでくれることもあって有名だった。店内は狭かったけれど、上り専用のエスカレーターがあった。

 

イエナに寄って写真集を食い入るように見た、というのは、よく聞く逸話だが、そんな逸話を追体験するような気持ちで、私も立ち寄ったのかもしれない。なぜ、そんなに洋書が買えなかったのだろうか、という話は長くなるので、また別の機会に書くとしよう。

 

現代美術系のギャラリーもときおり覗いたりしていたが、入るときに緊張したのは、4丁目の佐谷画廊だった。階段を降りて入った白い壁。なんの展示を見たのかは忘れてしまったが、ちょっと違う緊張感は覚えている。

 

ところで、どうでもいいことだが、銀座ニコンサロンの近くの地下には、シェーキーズがあった。ピザとポテトの食べ放題が600円なのは、当時としても安かったはずである。

 

記憶のなかの銀座の光景に、なにか足りない。なんだろう。

 

数寄屋橋には富士フォトサロンがあり、そこからスキヤカメラの看板の方向に数寄屋橋交差点を渡る。そう、数寄屋橋交差点では、いつも辻説法が行われていたのである。電柱などにはビラが貼ってあった。そのことを思い出したとたん、1980年代の銀座の、音と匂いの記憶が鮮やかに蘇ってきた。

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